はじまりのカンバス
学祭前だからといって、放課後の見回りなんて真面目にやる委員はほとんどいないのに、いちいちドアを開けて確認する自分に自分で嫌気が差してしまう。そこまでする必要ないってわかってるのにしてしまう、ああ悲しき性分。だいたい僕は学園祭とか、そんなに盛り上がるタイプではない。隅の方でそれとなく楽しめればいいくらいなのに、学級委員の肩書きのせいで、ここしばらくは相当帰りの遅い日が続いていた。
ようやく西校舎の最上階、最奥に着いて、やっと終わりだと思いながら、人気のない美術室の扉を開く。
と、人影はなかったけれど、一枚の絵に目を奪われる。こちらを向いたカンバスに描かれた、窓のむこうの赤い風景。近づいて見ると、油絵だった。素人目にも、上手なのだとわかる。染まる校庭の木々が美しく表されていた。油絵なんてほとんど見たことはなかったけれど、こんなに綺麗なものだったのかと驚嘆する。(いったい、誰が描いたんだろう、3年の先輩かな、)しばし、連日の疲れも忘れて見入ってしまった。
ガラリ!突然の物音に、びくりと震える。慌てて振り返ると、そこに立っていたのは同じクラスの生徒だった。
「あ・・・ミト、ス」
呼ぶと、ミトスはぎょっとしたように目を見開いた。僕は首を傾げた。
「あの、どうかしたの?」
「・・・・名前、」
「なまえ?」
「・・・・・・ボクの名前、覚えてると、おもわなかった、から」
「え?」
目線で意味を問うと、ミトスは恥じ入るようにうつむいてしまった。どういうことだろうかと頭を捻る。
ミトス・ユグドラシルは同級生で、クラスではわりと目立たない子だった。保健室のマーテル先生の弟ということで、入学当初は話題になったけれど、病気がちで学校を休むことも多かったし、たまに来たときも保健室にいるのがほとんどだったから、あまり話をしたこともない。
ふと、そこまで考え至って、ああそうかと気づく。ふっと笑みが浮かんだ。
「忘れるわけないじゃない、クラスメイトだもの」
ミトスが顔を上げる。その瞳は、夕陽のせいか知れないけれど、わずかに赤かった。
「・・・ほんと、に?」
「当たり前だよ」
「そ、っか、ありがとう、セイジくん」
「あ。いいよ、ジーニアスって呼んでよ、みんなそう呼ぶからさ」
「・・・・・いいの?ボクなんかが、」
「いいのいいの、セイジくんって、なんかくすぐったいよ。だから、ね?」
頬を紅潮させて、ジーニアス、ジーニアス、とミトスは何度か呼ぶ練習をした。それからまた僕を見て、
「えと、・・・ジーニアス、は、ここで、何してるの?」
「あ、そうだ、教室の見回りに来てたんだ、下校時刻だから」
「ああ、そうなんだ?ごめんね、すぐ片付けるね」
言うと、ミトスは僕のそばまでやってきて、さくさくと絵の具の後片付けを始めた。その背中に尋ねる。
「ミトス、ねえ、もしかしてこの絵はミトスが描いたの?」
「これ?うん、そうだよ」
「っ!ほんとに?」
思わずしゃがんでいたミトスの肩をつかんでしまう。衝撃でミトスの手にしていたパレットがカランカランと音立てて落ちた。慌てて、手を離す。ミトスは不思議そうに僕をみた。僕は珍しいくらいに、興奮していた。この絵を、この美しい絵を描いたのが僕と同い年の、クラスメイトだなんて、
「・・・すごい、」
「え?」
「ミトスはすごいよ、ねえ、絵はいつからやっているの?とても上手だね、僕・・・僕、この絵、すごくすごく好きだよ、誰が描いたのかなっておもったんだ、だから、だからあの、・・・うまく言えないんだけど、その、ああ、もう!なんてゆったらいいんだろう・・・!」
呆然とした目線に、あ、と気がつく。
「ごっ、ごめんねいきなり、僕、あの、つい、」
ミトスは、しばらく黙っていたけれど、ふっと、口元を緩めてそうして、―――微笑んだ。
僕は息を呑んだ。形のいい唇に、赤い頬、やさしげな眉。初めてみた笑顔は、とても、とても綺麗だったから。
ありがとうと、控えめな唇がつぶやく。僕はなんだか決まり悪くって、かしかしと頭をかいた。
「そんな風にひとに言われたの、初めてで、ボク、その・・ほんとに、うれしいよ、ありがとう」
「・・・うん」
それだけ答えるのが精一杯だった。
よく知らないクラスメイトが、こんなに綺麗な絵を描くひとだったなんて、こんなに、こんなに綺麗に笑うひとだったなんて。
こみ上げ、湧き上がり、そしてどんどんとふくらむ、形容しがたい感情に、微笑が浮かぶ。
なんだか、期待していなかった文化祭がうんと楽しくなるような、そんな、そんな予感が、した。