茶色の家庭科室
奇跡だ、
彼はつぶやいた。目の前にはボウル、その周りには計量された材料の数々が整然と並んでいる。さすがにきっちりとした性格のおかげで重さを計ることは得意だったらしい。
予想外の嬉しさを覚えながら、となりの社会科教師をふりかえる。不安げな、採点を待つ生徒のそれにも似た、もの問う視線。家庭科教師はおだやかにほほえんだ。
「分量をきちんと計れるか否かで料理の出来が決まってくるものだ。この分なら、大丈夫そうだな。あとは混ぜて分けて焼くだけだから、安心するといい」
そう告げると、リフィルはようやく安堵の表情を浮かべた。
水だの卵黄だのが飛んでくしゃくしゃになったレシピを手に取り、リーガルはひとつひとつ材料を確認した。それから顔を上げて、
「グラニュー糖は計ったか?」
「え?・・・・あ、ああっ!忘れていたわ、ご、ごめんなさい、」
「いや、構わん。バターをほぐしておくから、その間に取りに行ってくれ」
「わかったわ」
準備室に消えるリフィルの背に、リーガルはおもわず涙しそうになる。脳裏に蘇るは数日前の惨劇。(のちに、それを目にした家庭科助手に黄色事件と名づけられたほどの伝説であった)卵をきちんと割るだけで二日、卵黄と白身を分けるのに三日、材料の計り方をマスターするのにさらに三日。一般人と比べると悲劇的な時間といえるのだろうが、この一週間でよくもここまで成長してくれたものだと、リーガルは感動にも似た衝撃を覚えていた。あのおそろしいまでに料理の苦手な女性が材料をすべてそろえることができたのは、紛うことなき、進歩であった。
過去、何人もの生徒を見てきたが、これほどに不器用な生徒はいなかったと、リーガルはふりかえる。そして家庭科の教師として彼女を教え導くことができたことを、あらためて思い返してしあわせなことだったとおもうのだ。
顔面に卵を投げつけられ、計量スプーンでしたたかに手を打たれ、ボウルをひとつダメにされ、一週間掃除当番をやらされたが、おかげで、リーガルは自分の忍耐力が強く逞しく鍛えられたのをひしひしと感じていた。どんなに不器用な生徒にも負けずに教え続ける根気を教えてくれた彼女には、感謝すらおぼえていたのだ。
めずらしくゆるむ頬をおさえながらバターをかき混ぜていると、リフィルがもどってきた。
と、ちょうど同じタイミングで校内放送が流れる。自分の名前を呼ばれたリーガルはエプロンをさっと外した。
「すこし職員室に行ってくる。グラニュー糖を計って混ぜておいてくれ、」
「ええ、わかりました」
職員室にかかってきた電話への応対を終え、リーガルは急ぎ足で家庭科室にもどった。
待ちかねていたリフィルがそっとボウルを差し出すのをのぞきこんでリーガルはおどろいた。クリーム色の、見るからに弾力のありそうな丸いもの。
「生地を、混ぜておいてくれたのか・・・!」
「その・・だいじょうぶ、かしら?」
「もちろんだ、まさかひとりでここまでできるとは思わなかった、ああ、すばらしい、」
そう言ってボウルを受け取って、匂いをたしかめたリーガルが動きをとめる。リフィルが首を傾げた。
「どうかして?」
「む・・・・その、いささか、かつおぶしの、香りがするのだが」
「ええ!」
「リフィル、その入れ物を見せてくれ」
茶色い粒のたくさん入った、透明の調味料ケースを受け取って蓋を開ける。ぷうんと香るそれは、どうみても、
「・・・・・・・ほんだし、だな」
リフィルが、一歩、あとずさった。顔を上げたリーガルが目をやれば、打ちひしがれた表情のリフィル、いまにも崩れ落ちてしまいそうで、慌てて手を伸ばす。拍子に、手の中の器がむなしく落ちた。カランカランカラン、はかなく響く、無機質な音。飛び散ったのは茶色の粒子、匂い立つかつおの香り。ああ、とうなだれたふたり。
(黄色のつぎは、茶色事件、か)
レシピの習得にはもうすこし時間がかかるらしい