大切の不変性と不偏性
くしゃり、
握り締めたとんがり帽の曲がるのを、慌てて指先で直した。さっきからもやもや考えてばかりで、引き継いだ受付の仕事も何度もミスしてしまった。横に座る、同じく受付のショコラの目線が痛い。それでも文化祭のがやがやは、どこか遠かった。だってしかたない、ジーニアスはあの日からほとんどボクと喋らなくなってしまったのだ。文化祭直前、プレセアに会った日から。(あ、すいません、列ができているのでそちらに並んでください、あれ?どこまでがうちのクラス?・・・・あ、あの辺が最後尾です)
プレセアとジーニアスに面識があるのはそのときまで知らなかった。ジーニアスの口から名前が出たことはなかったし、プレセアとは部活でたまに話す程度だったからだ。(・・・いらっしゃいませ、おひとりさまですか、え、あ、さんにん?すいません、)
・・・・ジーニアスがプレセアを好きなことも、そのときまで知らなかった。そういう話はしたことがなかったし、どこかで、そういう人がいるのを恐れていた。大切な友だちがいつか見知らぬ女の子に取られてしまうことなんて考えたくもなかった。実際はその相手も知り合いだったから余計にショックが大きかった。(手荷物はこちらにどうぞ、こっちのドアから・・・え?まだ前の組が終わってない?ごめん、)
真っ赤になってろくにしゃべることもできなくなって、嫉妬にボクを突き飛ばす、そんな彼は見たくなかった。突っ張った腕が胸を押した感触が、蝕むように、いまでも鎖骨のあたりにじんわりと残っている。初めての友だちからの拒絶はことばを失うほどつらかった。あとから、あれはきっとやきもちだったのだと気づいたけれど、それでも胸に鉛の沈んだように気分は重かった。(あ、どうぞ、入ってくださいお待たせしました、いってらっしゃい。・・・・・・愛想が悪い?これ、けっこうせいいっぱいなんだけど、)
プレセアと並べられたら、ボクはきっとジーニアスに忘れられてしまうとおもった。プレセアに、ジーニアスをとられるのはいやだった。そして、そんな風におもっている自分も、いやだった。本当は、友だちのことを素直に応援したいきもちだってあるのだ、ただ、自分が忘れられるのがこわいのだ。(ふー、・・・・・・・にらまないでよ、ちょっと一息ついただけじゃないか)
(でも、このままじゃ、・・・・・)受付用の仮装の、魔女のスカートをきゅうと握り締める。その先を考えるのは耐えられなかった。うつむいて、とんがり帽をぐいと目深にかぶる。いぶかしげにショコラがボクの名前を呼んだとき、ふと、それにかぶる声があった。
「っミトス!」
焦ったような声音、久しぶりに呼ばれた名前にどきりとして、あわてて顔を上げる。廊下の向こう、人ごみを掻き分けて走ってくる少年。(・・・ジーニアス、)
ボクはおもわず立ち上がった。駆け寄ったジーニアスは、手にしたベニヤをクラスメイトに放って、ボクの右手をぎゅうとにぎった。荒い呼吸を数度くり返して、それから、ようやく顔を上げる。久しぶりに真正面からみたまなざしに、すこし、震えた。いったいなにをと待っていると、そろりと、ジーニアスの唇がひらいた。
「ミトスごめん!僕、ぼく、言わなきゃいけないことがあるんだ、そう、この前はごめん!ほんとにごめん!あやまらなきゃって、ずっとおもってた!言い出せなかったんだ、恥ずかしくて、みっともなくて。でも、ミトス、だいじだから、すごく、だいじだから、やっぱりあやまらなきゃって、・・・ごめん、っごめん、ごめんね、ミトス、」
「ジー、ニア、ス・・・?」
「ほんとは、プレセアとミトスと、三人で一緒に文化祭もまわりたかったんだ!でも僕、誘う勇気もなくて、ミトスにもやきもちやいて、やな思いさせて、それで、だからっ、ごめん、僕、その、」
もういいよと笑えば、ジーニアスはほっとしたような戸惑ったような、複雑な顔をした。(でも、ほんとうにボクにはもう十分だった)
「・・・ありがと、ありがとう」
変わらない、きっと、他に大切な人ができてもジーニアスはボクの友だちでいてくれる。どっちが大切だとか、そういうことじゃなかった、ボクがジーニアスを友だちだとおもっていれば、ジーニアスがボクを友だちだとおもっていてくれれば、それでよかったのだ。
自然と、目じりが下がる、口元がほころんだ。ふりかえって凝視しているショコラに告げる。
「ごめんね、ちょっと行ってくる、すぐもどるから」
そうして身を翻して、つないだ手をぐいとひっぱった。ジーニアスが転びそうになりながらもついてくる。背中のむこう、あんたなんか全然仕事もできないんだからもう帰ってこなくていいわよ!と大声がきこえた。どなっているのに怒っている声音ではなくて、おかしかった。
ふと、駆け抜ける途中、むこうからきた大きなベニヤを抱える男とすれちがったとき、ジーニアスが叫んだ。"お礼なんていわないよ、・・・ロイドは焼きそばよりたこ焼き派だから!"どういう意味なのと問うたけれど、うしろの少年はわらっただけだった。
たどりついた1年C組、淡いみどりの立て看板の前、仮装した少女は立っていた。名を呼ぶと、大きなひとみがふりかえる。
「・・・ミトス、と、ジーニアス?どうしたんですか、そんなに急いで」
「っあのね・・、文化祭、さ、」
人ごみをかき分けかき分け走ったせいで荒い息をおさえながら、少女を見つめた。うしろでもごもごと焦ったような声。聞こえないふりをした。
「よかったら、いっしょにまわろうよ、ボクとジーニアスとプレセア、三人で!」
プレセアは、うつむいてすこし考えているようだった。それから顔を上げて、ちいさく微笑んだ。
「午前中と午後、一回ずつ舞台に出るんです。そのあとでよかったら」
「・・っ・・・!」
息を呑む気配、背後から。ようやくふりむけば、ジーニアスはすでに真っ赤でぱくぱくと口を開けていて、呼吸すら危ういのではないかとおもった。前見たときは気づかなかったけれど、その様子はなかなかおもしろかった。
目が合って、友だちは泣きそうな顔でボクに言った。蚊の鳴くような声だった。
「・・・・・・ありがとう、」
(それは、それはね―――ボクの台詞なんだよジーニアス、)