きみが世界を変える
贅沢には、慣れていない。二人旅を始め、ワイルダーの屋敷に来るのも数度めだが、ふかふかのベッドはなんだか尻が抜けてしまいそうで落ち着かなくて、どうにも、寝付けなかった。(こんなことを言えば屋敷の主に、野蛮人めと睨まれそうだけど)
気晴らしに風にでもあたってこようと、おぼつかない足取りで部屋を出る。窓が大胆に切り取られた宵闇の廊下は機嫌の良い月に、照らされていた。ほんやりとしろく淡く、反射する大理石は足を乗せると冷たく、纏わりつく夏に汗ばんだ素肌には心地よかった。
双月のかがやく夜、裸足で歩こうととがめるメイドも執事もいないのをいいことに、ひたひたと、よく磨かれた廊下をあてもなく。さいわい、歩き尽くすことなど想像もつかない広い屋敷である。眠気を覚えるまでの散歩には、ちょうどいい。
すこし行くとふと、一音、透き通った音が聞こえた。ポーンと、透明の、ひびく音。風の声かと思えばそうでもないらしい。ひとつ、またひとつ、気紛れのようなそれはやがて重なりゆっくりと和音をつくり、どこからかやってきて俺の耳を撫でては消えてゆく。
音楽なんてこれっぽっちもわからないけど、たぶん、ピアノだとおもった。(というか、ピアノ以外の楽器なんて太鼓か笛くらいしか、知らないんだけど)ゲイジュツやブンカなんてものにはとんと、うとい俺だ。曲名なんてわかりもしない。だけど、いい曲だ。俺は好きだ。
どこから聞こえているのだろう。広い屋敷を耳だけたより、ふらふらと。ほこりかぶった倉庫の、だだ広い書庫の、存在すら知らなかった屋根裏の、扉を開けて閉めてしばらく探して、たどりついたのは離れの尖塔最上階、重厚な、金縁きらめく樫のドアの前だった。
重い扉をそっと引くと不意に、風が吹きつけてきて髪を乱暴に梳く。おどろきに思わず声をもらすと旋律が止まった。急な風の止んだのに、かまえていた両腕を解いて顔を上げる。
「・・・・ロイドくん?」
ゼロスだった。石造りの部屋、ドアの正面の壁は広くくり抜かれ、俺の背丈より高い窓がサァサァと風を運んでいる。中央に置かれたグランドピアノ一台に占領されるほどの狭い室内は、石の匂いと月の光に満たされ、ひっそりとしていて、夏だというのに妙に寒々しく見えた。タンクトップ一枚、剥き出しの肩を見て、寒くないかと思わず聞いてから、間の抜けた質問だなと自分で思った。白いピアノの前に座ったゼロスはさして気にした様子もなく、べつにと言った。椅子から立ち上がって、こっちを見やる。
「起こしちまったか?」
「あ、いや、寝付けなかったところだから」
「そっか。・・・俺も、この家じゃあんま、寝れねえんだわ」
「っ、」
窓からまた風がふわり、舞い込む。白銀にきらめく、絹のカーテンがめくれて窓辺のゼロスを覆い隠す。風が去ってもう一度現れたゼロスの顔つきは、月夜に照らされてなんとなくいつもとはちがって見えた。言葉の足りない俺にはなんと言えばいいのかわからないが、とにかく不思議な気配をゼロスは纏っていたのだ。さらさらと、揺れる赤毛はなんだか今にもどこかに行ってしまいそうで、思わず小さく名前を呼ぶと、ゼロスは急ににやりと、人の悪い顔をした。
「ああもしかしてロイドくん、夜這いかけにきてくれちゃったの? わりぃね気づかなくて、」
「っ、ちがうっての! ばかゼロス!」
怒鳴ると浮かべる下品な笑いはいつものそれで、俺はすこし、安心した。(・・・めずらしくしおらしいところなんて見せるから、ちっと、心配しただろうが)
近寄って、見慣れない楽器を眺める。開いた蓋は自慢の白糸をのぞかせ、脚はすらりと、けれど確りとそこに立ち、白黒の鍵盤は主人の指先を待ち焦がれるように鈍く光っていた。間近で見るのははじめてだ。貴族の趣味はよく知らないから、ものめずらしい。
「それにしてもおまえ、ピアノなんて弾けたんだな」
「弾けるって胸張れるようなレベルじゃねえよ。まあレディを口説くのにはちょうどいいけど、・・・ハニーだもんなあ」
「っわるかったな未開の野蛮人で!」
「まあまあ、誰もんなこた言ってねえでしょうよ」
(さっきの曲は、好きだと思ったのに。・・・そりゃ、名前も知らねえけどさ、)
目を伏せ、手元の鍵盤にそっと触れてみた。軽く押すと、案外重い。力を入れて弾けばポーンと高い音が鳴る。開いた蓋の奥、弦が1本震えたのが見えた。
てきとうに弾いてみる? ゼロスが聞くからうなずくと、肩をつかまれて堅い椅子に座らされた。手の形はこんな感じ、と、音楽教師は指南する。言われたとおりに指を軽く曲げて、気の向くままに鍵盤を叩く。
すこし弾いていると、後ろに立っていたゼロスが気まぐれに手を伸ばした。俺が押すてきとうな音に合わせてゼロスがピアノを弾く。思いつくままの音がゼロスの手で旋律に変わっていく。
ピアノのメロディーに混ざってすぐそばで聞こえる吐息に、ほっとした。さっき月光に照らされたゼロスはなんだか儚くて消えてしまいそうだったから。
しばらく弾いてみて、飽きっぽい俺はすぐに飽きた。手を止めると、ゼロスも離した。そうして耳元、くすくすと笑う。
「ゼロス?」
「・・・俺、ピアノって嫌いだったはずなんだけどな」
「え、」
「ガキのころ強制的に習わされてさ。一通り練習が終わって解放されて、それから全然弾いてなかったんだけど、」
こんな、楽しかったっけな、鼻と鼻の触れそうな距離、ゼロスは笑う。その表情は、欠けた月の満ちるように、旅の内にすこしずつ、見せるようになったものだ。共に歩く毎日に見出したものだ。自惚れにちがいないが、この笑顔の一欠けでも、自分がつくっているかもしれないと思うと泣きそうになる。前を向くと、鍵盤に置いた指が震えた。
ゼロスが頬を撫でる。ひとすじ伝った涙がその指の腹に触れて、ぴくりと止まった。
「ロイドくん?」
「ん、なんでも、ない」
ゼロスはなにも言わなかった。ただ椅子越しに、硬い腕を伸ばしてぎゅっとうしろから抱きしめた。ゆっくりと、伝わる鼓動はおだやかだった。
ゼロス、いままできっと、世界に目を閉じていた、耳をふさいでいた。
これからもっと、もっとずっと、お前の好きなものを見つけに行こう、朝焼けを発って地を駆け海を割り空を飛び、地平線さえ越えて、どこまでもどこまでも。
(ふたりで、いっしょに)
20090507:加筆修正
元作品「きみの存在が世界を変える」
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