現代のお話です、ご注意
(あの夏ぼくらはガキだった)
最悪だ、
雨露に消えたセブンスター、(最後の一本だったのに)会社を出たとたん降り出した秋雨に舌打ちする。歩き続けるには、卸したてのスーツがもったいなさすぎた。シャツのおよばない指先がふるりと戦慄く。しばらくは堅く閉められた八百屋の前で鬱々と待つことになりそうだった。
燃えかすを捻りつぶして鉛色の空を見上げると、ふとよぎる既視感、よみがえる幼い声。
雨が好きだと、彼は言った
十八の、高校最後の夏、俺は小さいころよく預けられた、亡き祖母の別荘に戻っていた。
年頃らしく、両親へのちっぽけな反抗心をくすぶらせていた俺は、とかく独りになりたかったのだ。学校には虎視眈々と互いを監視するお坊ちゃんしかいなかったから、休みの日まで会いたいなどと思う人間もいなかった。
必要なだけの使用人を置いて、気ままに生活するのは楽だった。好きなときに起き、気の向くままに生活し、好きなだけ寝る。大学に入ってからは親の会社に取り込まれることを宣告されていた俺に与えられた最後の自由だった。
彼に出会ったのは、夏のくせにひどく暗い、通り雨の日だった。
気紛れに所有の山のふもとに出かけたところを襲撃された俺は、背の高い木に隠れていた。しとしとと続く音、ぐずぐずと湿っていく土、その元凶を見上げながらいらいらしていた。すると、不意に視界が白に染まった。数度まばたきして、白いパーカーと、それを広げた少年に気づく。鳶色の双眸が俺を見つめていた。澄んだ瞳を、キレイだと思った。(あとからそれは、一目惚れだったのだと気がついた)
白い布になんとかくるまって屋敷までふたりで走った。急いで湯を沸かさせて少年を放り込み、そのあと自分もシャワーを浴びた。
夕食をたらふく詰めこんだ後、山に散策に来たところ迷ってしまったのだと少年は言った。年を聞くと俺と同じでおどろいた。風呂上りの童顔は愛らしく、下ろした髪は幼さを匂わせていた。
その夜俺は初めて男を抱いた。
女と寝たことはあれど、どの女もその少年とはとても比べようもなかった。硬く細い裸身に丸みややわらかさはなかったが、俺はすぐに彼に溺れた。少年も同じだった。
次の日から少年は飽きず俺の屋敷に通った。ほとんど同居に近かった。いつもふたりでいた。酸素を求めるように求め合った。
しかし彼は決して名前を教えてはくれなかった。一度なぜだと問うたら、夏がくればおまえは帰るからだと少年は寂しそうに笑った。そして最後まで明かすことはしなかった。(おかげで記憶の彼は決して消えることはないのに、いつだってどこかおぼろで、輪郭を持たない蜃気楼のようだった)
一月はまばたきよりも一瞬だった。
気づけば東京に帰る日は間近に迫っていた。最後の最後まで日付は言わないつもりでいた。少年に告げればこの幸せの終わってしまう気がして、言わなかった。
帰宅の前日は、示し合わせたようにまた雨だった。
ねずみ色の空を通り抜けてきた濡れた少年を、俺は毛布でくるんでむかえた。
その日は一日中彼を愛した。雨のやむことはなかった。長い情事のあと、ようやく、明日東京に帰るのだと告げると、腕の中の少年はぽつりと言った。
俺、雨が好きなんだ
目で理由を問い返すと、少年は微笑んだ。そして、
そして、なんと言った?
少年の声は特別で、今だってこの身に残っている。しかしあの一言だけが思い出せない。ただ漠然と、大切な言葉だったような気がした。あのとき彼はなんと言ったのだったか。(ああだから名前を教えろと言ったのに、)
考えの海に沈むときの癖でポケットから煙草を取り出そうとして、からっぽの箱に、それはもう残っていないのに気がついた。
そうだ、最後の一本すら雨に消えてしまったのだ。
(―――あ)
思い出した、ああ彼は、彼が言ったことばは、
「「涙も隠してくれるから」」
とつぜん、重なった声にはっと顔を上げた。目の前にはやはりデジャヴ、白い傘を広げた男が立っていた。見覚えのある鳶色、その瞳にはあふれる涙、俺は目を見張った。男は笑う。一歩踏み出すとあとは止まりようもなかった。上等のスーツなんて知ったこっちゃなかった。抱き締めた身体はあの夏と同じ匂いがした。
レイニーレイニー
(名前を教えなかったのは、その方がずっと覚えているとおもったからだよ)
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追記:ポルノの「天気/職人」をベースに書きました