秋の末にとおり雨のように降る雨を、秋時雨というのだそうだ。
かじかむ両手に白い息を吹きかけながらぼんやり思い出した。高校の古文の時間に先生が言っていたような気がする。ちょっと寝てるとすぐ起こす、面倒な教師だったから覚えている。しかしこんなことまで思い出すなんてよっぽどひまなんだなと凍てついた思考がつぶやく。鼻がつんとした。
とおせんぼするよう、玄関に着いたとたん降り始めた小粒の滝を見たときから今日のバイトは半分あきらめている。(無遅刻無欠勤、けっこう自慢だったんだけど、)この悪意を持った天気じゃしかたがない、バカだって風邪は引くもんだ。そしてバカだから授業を休むとよけいにこまるのだ。
断りの電話を入れようとジーンズのポケットに手を伸ばしたとき、コツン、背後で物音。ふりかえれば見覚えのある男が立っている。


(・・・・ワイルダー、)


同級生。水、木曜だけ同じ講座を取っている。話したことはない。唯一の思い出、最初の授業の自己紹介で名前だけ言ってさっさと座ったこと。無愛想なやつだなって、おもったただそれだけ。
じっと見ていれば当然だが目が合った。視線はすぐにむこうからそらされた。ワイルダーは教室窓ぎわの住人である。人としゃべってるのはほとんど見たことない。自然の反応だった。
コツ、コツン、ひどく緩慢な歩み。靴音が廊下の堅い音から、すのこの軋む音、それから冷たい石の音に変わってゆく。俺のすぐそばまで来て不意に、ワイルダーは立ち止まった。


「え、」


見上げるとワイルダーは黒い手提げから傘を取り出した。そうして足元にことんと、置く。声をかけるタイミングさえわからないほどに自然で、ゆっくりとした動作だった。
けれど歩き出すのはすばやくて、俺が呼ぶ前にワイルダーはザカザカと雨を突っ切って行ってしまった。追いすがろうと伸ばした手は水滴に触れて冷たさにおもわず止まる。背中が遠ざかるのは一瞬だった。(・・あ! あー・・・・行っちまった、)


ぽつん、一人と一本、残されてため息。足元にはシンプルな紺色の折りたたみ。
手にとって、折り目をくしゃくしゃにしないようにそっと、ひらく。雨空に一歩踏み出すと、パラパラと布地に当たる飛沫が心地よかった。
無事に帰れただろうかと、落ち葉で埋まる並木道をあるきながら鉛色の空を見上げる。どうして貸してくれたのだろう、週に二度、同じ教室にいるだけの俺に。
(・・・・・風邪とか、引かねえといいけど)






秋時雨を通り抜けてつぎの水曜は絵に描いたような冬晴れが照らしていた。寒さは増せど、こんなにさわやかに晴れられてしまってはどこかあたたかい気分になる。いつもより早めに家を出てしまったのも、こんな天気のせいである。(べつに、ワイルダーに会えるからとか、そういうわけでは、ない。・・・たぶん)
折りたたみ傘をリュックに忍ばせてそわそわと教室に入ると、始業時間よりはすこし早いが指定席にはやはりその姿があった。ゆるく束ねられた赤毛に陽の映えてきらきらりとまぶしい。
他にまだ人がいないのをいいことにそっと、近づいてみる。なにやら読んでいる本をのぞきこむようにしてみれば、ワイルダーは面倒くさそうに顔を上げた。


「なに」
「傘、この前、ありがとな」
「・・・大したことしてねえよ、ただの気まぐれだから」
「や、すごく助かった。ありがとう」


リュックから傘をとりだして机に置く。ワイルダーはいくらか驚いて、返さなくてもよかったのにとつぶやいた。そんなわけにいかないと言えば、ちょっと戸惑ったような顔をした。


「・・・用事って、これだけ?」
「え? あ、うん」
「あそう」


それ以上の一切をシャットアウトするように、ワイルダーは文庫本にまた視線を落としてしまった。ほんとに無愛想だなと思ったけどそれでも傘を借りた義理があるから、もいちど話しかける。


「この前、あれから大丈夫だったか?」
「え?」
「風邪とか、引かなかったか? 寒かっただろ、」
「・・・・どうもしねえよ。お節介なやつだな」
「そんな言い方ねえだろ、心配したんだからな」


ぱちくりと、ワイルダーはまばたきをする。長いまつげが不思議そうに小さく震えた。


「心配? 俺を?」
「そうだよ、お前ずぶ濡れだったじゃないか」


口の中で何かもごもごつぶやいて、それからうーんと考え込んで、やがて眉をくしゃっと歪めて、そしてワイルダーは、笑った。


「おまえって、へんなやつ」


俺は本当は、変なやつってどういう意味だとか聞きたかったんだけど、結局それはできなかった。初めて見た同級生の笑顔は男なのにキレイで、なんというかその、非常に情けないはなしだが、俺は見惚れてしまっていたのだ。






まぬけな顔してるよと、ジーニアスがあきれたように言う。なんて答えたらいいかわかんなくって、俺は笑ってごまかした。今日の授業、わかんなくてもノート貸してあげないからねと言われて慌ててちゃんと受けるよと返した。しかしけっきょく上の空だった。散々お説教しながらもジーニアスがノートを貸してくれたのはありがたかった。
だけど講義に身の入らなかったのは正直なところ、俺でなくワイルダーのせいだとおもう、まじで。あんな顔は反則だ、遠巻きにキレーだと思っていたけど、近くで見た笑顔にあんな威力があるなんて、知らなかった。
おまえのおかげで今日一日分の講義がパーだ、授業料はらってください、とかそんな、バカなことを考えていたから、だから気づかなかったのだ、今日は午後から降水確率七十パーセントだったなんて。お天気お姉さんももうすこし大きな声で注意を促してくれればいいのに。(いや傘のことばかり考えてて聞いてなかった俺がわるいんだけど)
玄関前、ザァザァと降り散らす雨の粒。目の前に広がるのはこのあいだとまったく同じシチュエーション、なんて進歩のない。バイトがないことだけがせめてものすくいだった。


秋の末にとおり雨のように降る雨を、秋時雨というのだそうだ、なんてポエミー、雨が降るたびにやってたらただのバカだ。
しゃがみこんで自分のまぬけを嘆く。きっと一日中脳内であの表情を独り占めしていた罰にちがいない。どうしようとうつむいていると、ふと、頭の上から降ってきた言葉、あきれた声音。


「勉強しねえな、おまえは」


顔を上げればワイルダーが立っている。今朝俺が持ってきた傘を手にしていた。しゃがんだまま見上げるとよけいに背の高いワイルダー。そのうしろの蛍光灯と相まって、秋雨の神さまのように見えた。ああなんて神々しい、神さますみません、明日からはちゃんと折りたたみ持ってくるから、


「傘、入れてもらってもいいかな・・」


返ってきたのは、しょうがねえやつだなという笑いまじりの声だった。



この前の雨の日は、出かける予定があって家から迎えの車が来ていたのだそうだ。道すがら聞いてほっとした。あの雨の中手ぶらで帰らせて、わるいことしたなと思っていたのだ。
今日はいつも通り電車で帰るというから、ちょうどよく駅まで入れてもらった。普段はさむい時期の雨なんてめんどうなだけなのに、ワイルダーの傘の下はなんだか居心地がよかった。にやけていたらおまえきもちわりいなと言われてしまった、失敗だ。
大学からほど近い駅に着くころにはずいぶんと小降りになっていた。よかった、この分なら家に帰る時には止んでいるかもしれない。ありがとうと言おうとして傘をたたむワイルダーを振り返れば、電話に出ているところだった。聞いちゃわるいかなと背を向ける。だけど低い声はよく通って、意図せず耳に入ってしまった。セレスと、知らない名前を呼ぶ声は、聞いたことない甘さを含んでいた。


(・・・・・・そっか、彼女、いるんだ)


まあそうだよなと、冷めた頭がなんだか妙に納得する。これだけキレーな顔してて、じつは性格もいいやつだったら周りが放っておくはずがない。きっとかわいい彼女がいるのだろう。
そう思うとどうにも背筋が冷えて、さむくて、ごめん急ぐからとことわって俺は駆け出した。呼び止める声が聞こえたような気がしたけどうしろは見られなかった。




気まずくて、次の日、二時限目の教室に入るのはためらわれた。だけど昨日の授業もろくに聞いてなかった前科があるからしかたなく、チャイムの鳴る間際、重いドアを開けた。一瞬で目が合った。そらした。焦った。ぎくしゃくする足でなんとかあるいて、廊下側の、一番うしろの席に陣取る。通りすぎざま仲のいい友だちがどうかしたのかと声をかけてきたけど返事する余裕はなかった。
すとんと膝の力の抜けたように座って、窓ぎわ一番前の席、定位置を、ちらりと見る。あれ、とおもわず声がもれた。さっきまであった姿がない、なんでだ、そう思ったら答えはすぐそこにいた。左と右、二列に分かれた机のあいだ、ゆるやかな階段をスタスタと登ってくる長身、目を見開いた。常にないことで教室がおどろきにざわめいた。注目の的はスタスタと、こっちに向かってあるいてくる。


「あの・・・・ワイル、ダー?」


なんでと問おうとした瞬間にベルが鳴った。時間にはあまり遅れない講師が慌てて飛び込んでくる。ワイルダーは俺のとなりに座った。ざわざわがひそひそになった教室で、ペンを取り出しながら小声で言う。


「昨日なんで、いきなり帰ったんだよ」
「え、・・と、その、ちょっと、急いでて、」
「・・・用事があるなら、先に言えよ。そしたら俺も急いだのに」
「へ?・・・・あ、う、うん、そうだな、ごめん、わるかった」


あやまるとワイルダーは、それ以上なにも言わなかった。わざわざ俺に気を遣ってくれたらしかった。用事もないのに勝手に帰ってしまったのがなんだか申し訳なかった。そして、バカな俺はまた、くりかえすのだ。


(・・あれ、授業、いつのまにか終わってる・・・・! あー! また、ワイルダーで一時間が終わった・・・)


気がつくと人のどんどんいなくなってゆく教室。自己嫌悪にがっくりと肩を落としていれば、となりに座っていた男がのぞきこんでくる。びくりと身を引いてそれから、なんだよと聞けば、ワイルダーは戸惑いがちに目を伏せた。


「・・・・お昼、いっしょに食う?」


いったい今日はどんな罰が当たるんだろうと俺は不安になった。




「ワイルダーも、学食とか、食うんだ」


ぽつりとつぶやくと、そばをすすっていたワイルダーが無言でにらむ。飲み込んで、キレイに平らげてから言った。


「なによ、だめ?」
「や、あんま、食堂で見かけたことないしさあ」
「あー・・・うんまあ、ふだんは弁当だけど」
「ああ、やっぱり」


そう広くない食堂は昼時で、わいわいと盛り上がっている。人の大勢いるところは、なんだか似合わない気がしたのだ。
俺がひとりで納得していると、ワイルダーは空になったどんぶりを不思議そうに見つめた。


「コロッケそばって、案外、うまいもんだな」
「あ、だろ? 俺も最初、別々に食えばいいじゃんて思ってたんだけど、食ってみるとけっこういけるよな?」


うんうんと、やたら真剣にうなずくのがおかしい。よかったら明日も一緒に食うかと聞こうとして、はたと思い出す、昨日の名前。


(・・・『セレス』)


もしかして、いつもはキャンパスのどこかでその子と一緒に食べているのかもしれない。今日はたまたま、予定が合わなかっただけかもしれない。俺がそんなことを言っても、困らせてしまうだけだろう。きゅ、と口を一度結んで、それから言葉を変えた。


「よかったら、また今度来てみろよ、日替わりとか、たまにすげーうまいのあるんだぜ」


よし俺いま笑顔かんぺき!と思ったのに、ワイルダーはなぜだか不満そうに、眉根をよせる。それから、


「明日もここで食べるつもりだったんだけど、おまえ、付き合ってくれねえの?」


予想外の返事に、しばらく固まる。ううんと足りない頭で考えて、でもやっぱりなんて言ったらいいかわかんなくて、けっきょく素直に聞いてみた。


「・・・彼女、とか、大丈夫なのか?」
「はぁ?」
「昨日ほら、しゃべってたじゃん、その・・セレスって、」
「え? ・・・・ああ、あれ、妹」
「へっ! い、いいいもうと?」


うんそうだけどなにって、聞かれたらもうなんともいえない。(・・・なんだ、そっか、妹、か、)肩の力が抜ける。バカみたいに安心しているのはなんでなんだろう。まあいいか、だったら俺の言うことはきまっている。


「じゃ、明日も、いっしょに食べるか?」


うなずく、キレイなキレイな笑顔、もうどんな罰が当たってもいいやって思った。
その次の週、授業では小テストがあった。前の時間告知していたらしいが俺は聞いてなかった、ボロボロだった、ちょっとだけ泣いた。








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20090322:無料配布冊子より