覚えていないんだろうなと、おもう。

中二の夏、うだるような教室、暑さを増徴させるクラスメイトの声。

―――あの夏、あたしはあいつにすこしだけ、ほんのすこしだけ、恋をしていた。


ゼロス・ワイルダーは、二年生で初めて同じクラスになった同級生だった。

当時から肩口まで伸びていた赤毛は教室でも目立ち、その顔立ちにクラスの女子の目は華やいでいた。あたしもその中のひとりだった。

けれどゼロスは他人とつるむことをしなかったから、ずいぶんと周りから浮いていた。一匹狼なのを、女子はまたカッコいいと騒いだ。


事が起きたのは七月も末、一学期の終業式のことだった。

成績表に浮かれはしゃぐ男子のひとりが、その場の勢いでゼロスに絡んだのだ。夏休みの予定はどうだとか、最初はくだらない話だったとおもう。それが、すこし、過剰にエスカレートして、その馬鹿は触れてしまったのだ、あいつの不可侵領域に。

もとから、自分のことを根掘り葉掘り聞かれるのをゼロスは嫌った。そのゼロスに、夏休みはなにをするのだ、だいたいいつも放課後すぐに帰ってなにをしているのだ、彼女でもいるのかと、ひやかすように。

日常、ひそかに観察していたあたしには、ゼロスの静かに怒るのがわかった。馬鹿は殴られるとおもった。だからつい、間を割った。やめなよ、困ってるだろと、女子の中でも気の強い方だったあたしが言うと、そいつは不満げではあったけれどすごすごと引き下がった。ゼロスは鞄を持って教室を出た。あたしはとっさに追いかけた。

下駄箱で追いついた。そして、なぜ追いかけたのだろうと自問して答えに詰まった。自分の上靴をしまったゼロスはゆっくりとこっちをふりむいた。そして、


ありがとな


初めて、あたしに声をかけたのだ。やわらかい、感謝のことば。あたしは舞い上がった。なにか言おうと頭をはたらかせていると、ゼロスはくるりと踵を返した。


それじゃ


二言めはずいぶんと硬質だった。あたしは指先の震えのとまるのがわかった。

入りこむ隙間なんて微塵もないと、気づいてしまったのだ。あいつのプライベートに、立ち入る勇気などないと、わかってしまったのだ。

つかの間浮き上がって、一瞬で散った淡い恋、短い春だった。(季節はもう夏だったんだから、とうぜんか)





だれも、あいつに立ち入ることはできないのだとおもっていた。そしてそれは、数年で覆された。

高一の冬、冷え切った教室、寒さを防いでくれるクラスメイトも少なくなった。

ずいぶん遅いねえというと、先生に単位のことで呼ばれてるらしいとロイドはいった。そうと返して、彼と一緒に人を待つ。

五分ほど待って、待ち人はようやく来た。

わりぃ、ロイド。呼ぶ声は記憶の中のそれより幾分ひくく、太くなっていた。おせぇよとロイドがわらう。笑顔がまぶしかった。あたしが踏み込めなかったところに、軽々と入っていった彼に軽い嫉妬のようなものを覚える。

ロイドが振り向いた。一緒に待ってくれてありがとうと言うのに小さくうなずく。となりのゼロスがあたしをみて、ちょっとだけ微笑んだ。とくり、胸が鳴る。その唇が、秘密にうごいた。


あ り が と な


微動だにしないあたしにロイドが不思議そうな顔をした。慌ててクラスメイトの顔を取り繕って、なんでもないよはやく帰りなと急かす。

こちらを振り返りながらも去ってくれたのにほっとして、イスに座りこむ。

口元がゆるむのをとめられない、ああ覚えていてくれたのかとおもうと、終わった恋だけれどうれしかった。





(願わくは、どうか、しあわせに―――あたしのとなりでなくても、いいから)