Loss in sleep
家に帰ると部屋の明かりはついていなかった。いないのかなと思いながら見渡すと、闇の中、視界の端で何かがもそりと蠢く。目線を部屋の隅に遣れば、そこには薄暗いけれど見慣れた赤毛が見えた。朝市で買ってきた荷物をテーブルに置いて近寄ると、ぱっと、ゼロスが顔を上げた。俺と目が合うと、左足、右足、よろめきながら立ち上がって駆けて、俺に抱きついた。がしりと、背中に回された腕。突然の子どもみたいな仕草におどろいていれば、その手の震えているのに気がついた。
「ゼロス?どうかしたのか」
「・・いなくなっちゃったのかと、おもった」
蚊の鳴くような声だった。寝ぼけているのかと思ってその頭をかるくこづく。
「バカだな、なに言って、」
「・・・・・・・・父さまは、ぼくを寝かせてから、出ていった」
ぎゅううと、俺の服を硬い手が握った。肩に触れると、痛々しいくらいに強張っていた。いつもひどく陽気なのが嘘みたいだ。本当は人一倍繊細だということはもちろん知っていたけど、ここまで怯えているのを見るのは初めてのことだった。眠っているあいだに人に出て行かれることが、本当に耐えられないのだろうとわかった。
そういえばゼロスは小さな物音でも目を覚ますから、俺より後に起きることなんて稀だった。今朝は、俺がベッドから降りても起きないからめずらしいなと思ったのだ。それで、熟睡しているのを起こすのが悪くて、こっそり家を出た。・・・・まさかこんなことになるなんて思っていなかった。
「・・・ごめんな、ゼロス。朝市があるから、ひとりで行ってきたんだ。黙って出て行って、本当にごめん」
何度も背を撫でていると、ようやく、力がすこし抜けたようだった。膝立ちの身体を抱き上げると、ゼロスはのろのろと立ち上がって、いつになく不安そうな目で俺を見た。ほっぺたに触れて、だいじょうぶだよとくり返しくり返し、言う。ゼロスはぎゅうと俺を抱き締めた。強い、けれど壊さないようにとでも思っているのか、いくらか手加減した力で、その胸に押し付けられる。心臓の音はいつも一緒に寝るときよりもわずかに早かった。すこしでも落ち着けばいい、安心できればいいと思って、目を瞑って、左胸に顔をなすりつける。
「ろいど、くん」
「うん、」
「いい父さまじゃなかったけど、ね、・・・きらいじゃなかった」
「・・・うん、」
「でも、きがついたら死んでたんだよ、自殺、してた。ぼくが、ぐっすりねてる、あいだに」
「ゼロスは・・ゼロスは、なにも悪くないんだから、な」
押さえつけられていた腕をなんとか伸ばして、その頭を撫でた。ゼロスは虚ろな目で俺を見た。
「母さまは父さまがしんでからしばらく酷かった。ぼくとははなしもしてくれなかったし、ぼくをみてもくれなかった、ぼくがなにかするたびすごく嫌そうなかおをした、ひどいと殴られることもあった。
そういうときはいつもへやのすみでまるまっていた、しばらくしたらやめてくれるとわかってたから」
淡々と語る様は見ているだけでもつらくて、耐えられなくて、俺は背に手を回して、ただただ、抱き締めた。俺よりも大きな身体は、実際より、ずっとずっと、ちいさく感じられた。
「・・・・おれは、俺はねロイドくん、ロイドくんのいなくなるのがいちばんこわいんだよ、」
「・・ゼロス」
「ロイドくんは、俺にやっと居場所をくれたひとだから、大切な、ひとだから、・・・・・こわいんだ、失うのが」
「俺は、どこにもいかないよ、」
「ほんと、に」
「ほんとだよ、俺がゼロスに一度も嘘ついたことないの、おまえが一番よくわかってるだろ」
「・・・うん。ロイドくんは、うそ、つかない、ね。おれを、ぜったいに裏切らない」
やっと、ゼロスはすこしだけ微笑んだ。俺の肩に顔を埋めて、腰に回した腕の力を強める。
俺が痛いバカと言うと、ゼロスは声を上げて笑った。むかついたからその脇腹をこちょこちょこちょりとくすぐってやる。ゼロスが、ちょ、むりむりもうやめてよロイドくん!と叫びながら俺の両手を捕まえる。それでも俺はそれを振り払って、こちょこちょし続ける。もつれ合って、俺たちは壁際のソファに沈んだ。
ひと段落して笑い疲れたその身体の上に乗っかって、身を屈めて耳元で囁く。
「どこにも行かないよ、ずっと、ふたりで、ばかなことやって、こうやって、笑ってよう」
ゼロスはひどく、ひどく、うれしそうな顔をした。
(おまえは知らないんだよ、俺だっておまえを手放せないでいること、)