(怒ってる、かな・・・!)
左を見て右を見て、新しいスニーカー、道路を割って走る。
春のはじめ、冬ののこりの冷たい風がうなじを撫でて、汗をひやりとなぞった。
心配性の恋人が見れば風邪を引くと怒られそうだけどぬぐっている余裕もなく、腕振って足上げてひた走る。初めてのデート、十分の遅刻は今後の付き合いに大きな影響を与えるにちがいないのだ。


最後の角を右に曲がって正面、最寄り駅が見える。狭い小道よりもすこし増えた人の間を縫い、待っているはずの恋人を目で捜しながら歩道を走っていると、向こうから来た黒い外車がふいに、横付けした。
あれ、と思わず足を止める。左側の窓がスッと下りた。左ハンドル、道路側、のぞいた顔にぽかんと口が開いた。


「急がなくていいと言っただろう、」


それから汗を拭きなさい風邪を引くぞと予想通りの言葉がつづいて、俺は思わず笑ってしまった。口元は引き攣っていたけど。




「駅で待ち合わせって言ったから、電車なんだと思ってた」


助手席でシートベルトを締めてからそう言うと、クラトスはハンドルを左に切りながらああ、と思い出したようにうなずいた。


「さすがにおまえの家の前まで迎えにいくわけにはいかないだろう」
「・・・そうだけどさあ、」


ひとことくらい言ってくれてもいいのにと思いながら運転席に目をやると、横目に俺を捉えた瞳が楽しそうに細められる。そんなうれしそうな顔をされるともうなにも言えなくなってしまって、俺は口をとじた。
初めて乗った恋人の車は大好きな人の匂いがとじこめられていて、道を曲がる振動ですら心地がよかった。










家に来るかと、クラトスが言ったのがきっかけだった。
卒業式の日、生徒がいなくなってから二人で帰っている途中に誘われて、一も二もなくうなずいた。制服のポケットでは封筒の中、はやく開けてくれとでも言いたげに恋人の家の鍵が揺れていた。




待ちわびて一週間、いざドアの前に立ってみると妙に萎縮する。
都心の立派なマンション、オートロック、十一階。緊張のせいで、狭い一階の駐車スペースからここまで来る間の記憶はあまりなかった。


ホテルみたいな絨毯の敷かれた廊下、重厚な造りの、ふたつも鍵穴のある玄関。面倒で普段は上しか掛けてないのだと横に立つ恋人は言った。
俺が鍵を手にしたままもたもたしているのを、どうかしたのかとクラトスがのぞきこむ。なんでもないと、俺は慌てて手を伸ばした。震える手、差し込んで回すとおどろくほど簡単にカチリとドアは開く。ごそごそとジーンズのポケットに鍵をしまうとクラトスは満足げにうなずいて、ドアを引いた。どうぞというように手で示されて、艶やかな石の敷かれた玄関、汚さないようにそっと足を踏み入れた。(く、クラトスの、家・・!)


玄関上がってすぐ、正面の扉をクラトスが開ける。一人暮らしにしては広い居間だった。正方形の部屋で、手前には食卓が置かれ、その奥にはゆったりとしたソファ、右手の壁には背の低い棚が並び、正面の大枠の窓に面した隅にはテレビボードがあった。物が少ないところはクラトスらしい。
俺はベージュのソファに座るように言われて大人しくそのとおりにする。新築らしくピカピカのフローリングにショルダーバッグを置いて、ソファに座るとふわりと沈んだ。うわ!おどろいて思わず声を上げると背中のうしろで小さな笑い声が聞こえた。失礼な。


すこししてクラトスは左となりの部屋からなにか小さな包みを持ってきた。さっきまで羽織っていた革のコートを脱いでいて、白いシャツとスラックス、ラフな格好はめずらしくてどきりとした。スタスタと歩いてきて俺のとなりに座ると、手にしていた包みを差し出した。ピンクのリボンの二重に巻かれた、白い長方形の箱。


「え、っと、これ、あの、」
「ホワイトデー、だろう?」
「・・・あ」


言われてようやく気がついた。
本日三月十四日。ホワイトデーより、クラトスと初めてのデートの日、という気持ちでカレンダにハナマルをつけていたから忘れていたのだ。というかバレンタインに受け取ってもらっただけでせいいっぱいで、お返しをもらえるなんて、考えてもみなかった。


予想外のプレゼント、すごく、うれしい。ありがとう、小さな声で言って、受け取った。買ったものですまないとクラトスは言ったけれどそんなこと大した問題じゃなかった、クラトスがくれたことになにより意味があった。


包装をそっと剥がすと、中身は高級そうなチョコレートだった。付属の串を手にとってビニールを外して、一口大の丸いチョコ、ひとつ、刺して口に運ぶ。粉のかかった生チョコはとろけてひどく甘かった。ついているぞと、となりのクラトスが自分の唇を指さした。慌てて口の周りを指でなぞったけれど、どこのことかわからない。しょうがないなと言ったクラトスが身を屈めた。え、と思っているうちに唇の左端、ぺろりと舐められた。俺はびっくりして、危うく持っていたチョコレートの箱を取り落としそうになった。なんとか両手で捕まえて、キッと、恋人をにらむ。


「っ、急に、なにすんだよ!」
「べつにいいだろう、恋人同士なんの問題がある」
「そっ、そそそれは、そう、だけ、ど・・・!その、こ、心の準備っていう、やつが、だな、」
「だっておまえ、舐めるぞと言ったらどうせ逃げただろう」
「う・・・」


淡々と言い返すのはひどく性質がわるいと、おもう。言いよどんでいるとクラトスは勝ち誇ったように笑って、俺の腰に手を回した。おどろいて身が強張る。さっきあんなことをされたばかりだ、今度は何をされるかわかったもんじゃないと、勝手に脳が警戒信号を送ってしまう。だって初めての恋人の家だ、緊張くらい、してしまう。


けれど予想に反してクラトスは、ゆっくりと俺の肩にもたれかかった。拍子抜けして俺は目を見開いた。


「へ・・・?クラ、ト、ス?」
「・・・・すまないな、すこし、貸してくれ」
「え、」


一週間あまり寝ていないと、ぼそぼそ、クラトスは言った、俺は焦った。だってクラトスが寝ちゃったら俺に一体どうしろと!今にも眠ってしまいそうな恋人の二の腕をゆすりながら、どうしてだよと聞けば、覚束ない声音でクラトスはのろのろ言った。


なんとか全部を耳に収めて、それで、俺はけっきょく恋人を起こすことができなくなってしまった。だって俺に会う時間を確保するために、春休み中の仕事を一週間で終わらせた、なんて、言われてしまったらもう、どうしようもない、あきらめて肩を貸す以外になにができるだろう、せめていい夢を祈ることくらいしかできやしないじゃないか。


そうだあと起きたときに言う文句を考えておくという大事な暇つぶしのたねがあった。起きた瞬間こっちからキスしてやるのもいいかもしれない、おどろいた顔はとても気持ちがいいのだ。どんな風にびっくりさせてやろう、あれこれ考えるのはひどく楽しかった。(覚悟しろよ、クラトス)








せめて今だけよい夢を!



(起きたら寝てた分だけ俺を構えよ!)







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ロイドくんは起きたあとに、構え!って特攻した挙句クラトスの逆襲を喰らって美味しくいただかれるといいな!という妄想をひとりでして楽しんでいます
二話くらいつづくと書いたのですが、よく考えたらロイドくん片思い中の話とかも楽しそうだなー、と思いました
シリーズで不定期更新的な、かんじにしたいです