綺麗に片付いた仕事に一息ついて、腕時計を確認する。六時限目の終わるまではあとすこし、今日はちょうどよく書類が片付いたとひとりごちる。
まだ若手の教師に送られる仕事はそう少なくなかったが、どんなに忙しくともなるべく放課後までには終わらせるよう心掛けていた。べつにそれは放課後の来客が心待ちだからとか、そういう理由ではおそらくない。ただ仕事を早めに終わらせる主義なのだと言い聞かせて、湯の少なくなったポットに水を注ぐ。再沸騰のボタンを押して、狭い部屋を見渡した。歩きづらいと毎回文句を言われる本の山脈に変化はなく、机の周りにも目立ったゴミはない。空気はさきほど入れ替えたところだからかびくさいと怒られることもないだろう、上々である。


鳴り響くチャイムの音に授業の終わりを知って、慌ててチェアに座っててきとうな資料を広げる。待っていたように見えてしまっては困る。
そうして落ち着かない心持ちで待っていれば、聞き慣れた元気の良いノックの音、二回。返事はせずに、ゆるみそうな口元をきゅ、と律した。ドアを開ける音、騒がしい失礼します、狭い山の間を跳ねるように快活にあるく足音。一気にやってきた喧騒にさも迷惑そうな表情をつくってふりかえれば、満面の笑顔に面食らう。


「・・っ勝手に入ってくるなと、いつも言って、」
「じゃじゃーん!」


キラキラしたオーラを振りまきながら差し出されたのはビニール袋、ボコボコの。何の真似だとのぞきこめばふわりと、独特の甘ったるい匂いが鼻をついた。顔をしかめてみせるけれど天真爛漫の笑顔は変わらない。


「苦そうなやつだけ選んで買ってきたんだ、クラトス甘いの好きじゃないから。えーっと、どれから食べる?とりあえずカカオ98パーセントからいってみるか?」
「受け取らないと昨日、言ったはずだが」
「どれが好きか知りたいだけだよ。べつにこのままプレゼントってわけじゃねえからいいじゃんか」


そういう問題ではないのだと言えばむむうと、アーヴィングはしかめっつらになる。伸ばした手を引っ込めるようすもない。目と目の攻防、しばし続いて、けっきょくアーヴィングはビニールを下ろした。そうしてうつむいて、ふてくされたようにぽそりと言う。


「・・・・・そんなにいやかよ、だったらいいよ、もうユアン先生に押し付けるから」


ガシリと、強い音がしたのはなぜだと、原因を探して見つけて自分で驚いた。持ち主の意思すら無視して勝手に動いていた右手、いつのまにかビニールを握るその手をつかんで、なぜか、離さない。ぱちくりと、丸い目がまばたいた。そしてパアアと明るくなる顔を見てつうと、汗が頬を伝うのがわかった。意志を持って石のように離れぬ右手に狼狽する。


「ちっ、ちがうのだこれは、そうだ、脊髄反射だ!つまりその、脳で意識しないうちに動いてしまっただけであってだな、決してユアンに対してなにか思ったわけではなく、その、―――もういいわかった、置いていきなさい」


あきらめて負けを認めた瞬間に、よく言えましたといわんばかりに力の抜ける右手が恨めしい。(すこしは持ち主に従ったらどうなのだ!)アーヴィングをにらんだ。


「いいかよく聞け、もらうわけではない、お前は今日この部屋にその袋を"忘れて"いくのだ、そして明日忘れたのを思い出してとりにくる。―――いいな?」
「おおっ!なんてこじつけ!さっすが教師だな!」
「っこじつけというな!」
「はいはい」
「・・・今日のところは見逃してやるが、当日はてこでも受け取らんからな、」
「はいはい、なんとしても口につっこんでやるよ」


研究机の隅、ビニール袋を置いてアーヴィングはくすくすわらう。笑うなと叱れば口元を押さえて肩を震わせた。まったくもって腹立たしい、こんな年下に翻弄されている自分が、そして私を困らせるこの生徒が。


しかし最も腹が立つのは、生徒の帰った後にいちいち袋を開けて一口ずつ食べては顔をしかめている自分の律儀なのだから、始末に終えない。(仕返しに明日鍵を閉めておいてやろうか、いや、窓を割ってでも入ってこられそうだ、やめておこう。・・・・・くっ、なんだこのチョコレートは、口が崩壊しそうだ・・・)