指がおかしなくらい震えていて、わらいそうになった。
「・・・いま、なんて言った?」
「持って帰れと言ったのだが」
すげなく繰り返される拒絶、頬が凍った。(だって一昨日、嫉妬みたいなこと、するから、昨日、あんなこというから、だから、期待、したんだぞ?)お願いだよと絞りだした声はひどく掠れていた。
そうして、とうとう返事すらかえってこなくなる。伸ばしたままの手、変わらない重さ、向けられた背中。オフィスチェアがキィと鳴く。クラトスはもう振り返らない。これ以上、立っていられなかった。ひく、と、嗚咽がかすかに漏れて、慌てて目頭を腕で押さえる。拍子にチョコレートの包みを取り落とした。急いで拾って、鞄に放り込んで、逃げるように本の群れを掻き分けた。こんなときまで崩れないように気を遣う自分が嫌になる。八つ当たりに倒してしまえたらどんなにいいだろう。(できっこないんだけど)
三年間、三回、差し出したのに、一度ももらってはくれなかった。今年は高校で最後だから、学校出たら、もう会えないから、何度も作り直して一番いいのを、丁寧に丁寧にラッピングして、持ってきたのに、クラトスはちらりと見ただけだった。けっきょく、教師と生徒だった。たぶん、"生徒の中では"ちょっと特別だった。でも、生徒に違いはなかった。
込み上げてくるものをなんとか押しとどめて、ドアの前、最後にふりかえる。見慣れた背中はどこか遠かった。
「・・・・じゃ、俺帰るな、――ばいばい、先生」
パタリ、後ろ手にゆっくりドアを閉めると肩の力が抜けた。廊下の空気はすこし冷たくて肺に染みた。
先生と、呼んだのははじめてだった。呼べば溝ができてしまう気がして、呼べなかった。案外かんたんに口に出せてしまったのに逆にびっくりした。たったのひとことで、こんなに苦しくなるのに、びっくりした。
涙はドアを閉めた瞬間からとまらない。湧き、あふれ、流れて廊下に水たまりをつくる。今日は点なんかじゃ収まらなかった。でも掃除するのはクラトスだとおもうと気がとがめて、いつまでもそのままではいられない。人気がなくてよかったとおもいながら、のろのろと、俺は歩き出した。
三歩、すすんで止まる。未練じゃない、うごけない、なんでだと、にじむ視界をとりあえず拭おうと、手を上げようとして掴まれているのに気がついた。ぼんやりと視線をたどる。白衣、がっしりした肩、鳶色の髪、(なんで、)
「クラト、ス、」
「待ちなさいと、言ったのが聞こえなかったのか」
「き、こえなか、・・った?わかんねえ、」
「ならもう一度言う、待ちなさい」
一方的な言葉に腹が立った。(受け取らないって、背ェ向けて、追い出した、くせに!)なんでだよと反発しようとした口が止まる。手首をつかんだのとは逆の手、長い指が伸びてきて、俺の頬をぬぐった。
「泣いていたのか」
「ちっ、ちがっ、な、泣いてねえよ!お、おれっ、ほら、花粉症だからさ、」
「ほう、カビが生えるぞと春先はいつも窓をあけていたのに?」
「っ!おまえ、なにがしたいんだよ!俺に追い討ちかけたいのか!」
「そんなわけなかろう」
行くぞと、クラトスは勝手に俺を引っ張った。強い力にぐらりと揺れて、抵抗したのにあらがえなかった。
さっき今生の別れと思って開けたドアをあっさりとひらき、クラトスは俺を準備室に押し込んだ。俺は目を見開いた。
「え・・な、なんだよ、これ、」
一瞬のあいだに荒廃した準備室、散らばった無数の本で足の踏み場もない。となりに平然と立つ教師を見上げた。
「いったい何があったんだよ、"キソクニノットッテ、セイゼント、"ならんでたんじゃなかったのかよ、」
「規則などもうどうでもいい、それより、急がないと帰られてしまうと思ってな」
「そんなに急いで追いかけるくらいなら、最初から帰さなきゃよかっただろ」
「っ帰したあとで後悔したのだから仕方ないだろう」
「こうかい?・・・なんで?」
首を傾げるとふいと、目をそらした。クラトスは言いにくいことがあるとすぐにこうやって顔を背ける。なんでなんでとしつこく縋ると、うっとおしそうに見下ろされる。その頬がどこか赤いとおもったとき、その目は眼前に迫っていた。閉じ込めるように両手、ドアについて、今日は逃げる余地すら残されない。間近の瞳に心臓がどくりと動いた。
「・・・おまえが柄にもなく、先生などと呼ぶのがわるいのだ、気になるだろう」
「せ、先生って呼べっていっつも言ってたじゃないか」
「あれはただの口癖だ」
「・・・うそつき」
「なんとでも言え」
吐き捨てて、クラトスは動いた。窓からの光がつかの間遮られ、唇にはやわらかい感触がある。すこしして離れて、ようやく、キスされたのだと気がついた。びっくりして後ずさろうとしたのにうしろは壁だった、むりだった。クラトスはばつがわるいような顔をして肩口にもたれる。首に触れる髪に緊張した。
「っな、なに・・すんだよ」
「おまえがわるい」
「人のせいにすんな!」
「おまえがわるいのだ、私は、卒業するまで手を出さないと決めていたのに」
「え?」
ドアについていた手はゆっくりと滑って俺の背中に回された。それから耳元でささやかれたことばに、顔がパッと熱くなる。
「っ・・・なんだよ、それ、じゃあなんでさっき、チョコ、受け取んなかったんだよ、」
「受け取ればチョコレートだけでは済まなくなっていた。私は生徒だから手を出すまいと、ギリギリの理性で耐えたのだぞ。・・・そうしたらおまえが、先生などと呼んで出て行くから、追いかけたら泣いているから・・・!ああもう、おまえがわるいのだ」
首筋に押し付けられた頬は、おどろくほどに火照っている。好きだと告げられたのはどうやら本当だった。じわり、じわりと、うれしくなる。(そうか、俺は卒業したら会えなくなると思ってたけど、クラトスは反対だったのか、)そしてようやくほっとして、けれど目の前にはまだ問題がひとつ残っていた。
「あ、の、クラト、ス、」
「・・・なんだ」
「いいかげん、離れてほしいって、ゆう、か・・」
「いやだ」
「せ、生徒に、手は出さないんじゃなかったのかよ」
「・・・・・・・もうちょっとだけ」
小さい子みたいにめずらしく甘えた声は、なんだか可愛くてどきりとした。チョコあとで食べてくれるのかと聞いたら、小さくうなずいた。ラッピングは崩れていないだろうかと俺は心配になった。
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