サーズデイはすこし、急いで帰る。
工房から借家までの道、五分もかからないが坂道を下る足はひどく慌てていた。夕焼け落ちる時間、石畳をスニーカーで、駆ける。追いかけっこをする金髪の子どもたちを避けながら、俺はただただ待ち遠しかった。




週に一度の、電話の夜だ。
料金が高いから国際電話は、あまりできない。一斤の食パンと日々戦うしがない留学生の身である。英国に来てからポンドと円の計算がいくらか得意になったのは、喜んでいいのかそうじゃないのかよくわからない。


毎日声が聞ければいいのに、最初のころ恋人は言っていたが俺がごめんなとあやまっていたらそのうち何も言わなくなった。よけいに、週に一度のこの日が大切になった。




走って狭いアパートメントに帰って、普段は日本人らしく靴だって脱ぐのだが今日はそれさえ気にせずに、荷物を放り投げベッドにダイブする。上着を脱ぎながら、電話の子機を手に取った。長い長い電話番号はもう押し慣れて空でも押せたが、その長さが俺たちの距離に比例しているようで、あまり好きにはなれなかった。


しばらくのコール音のあと、ゼロスは出た。第一声はいつだって、ロイドくん? だ。電波越しにいつもと変わらないその声を聞くと、ああ自分の名前がロイドでよかったなんて、そんなくだらないことを思う。だから俺はすこしだけ噛み締めて、ああ、とうなずく。


電話はほとんど、ゼロスが話す。まるで女子の話すようにころころと、話題は変わっていったがその気紛れな話し方も俺は好きだった。


その日のゼロスの話は、大学の試験の話題が主だった。年配の、面白い教授の話、人気のない助教授のエピソード、それから家族や共通の友だちの近況、そんなことを喋っているうちにあっという間に時間は過ぎていく。いつの間にかカーテンの向こうの空はすっかり暗くなっていた。向こうはそろそろ夜が明ける時間だろうかと思うと、電話を切る瞬間がひしひしと迫っているのを感じて心臓のあたりがぎゅっと苦しくなる。


急に口数の減った俺に、ゼロスがどうかしたのかと聞いた。寂しいんだ、口に出したらますます実感してしまいそうで、かっこわるくて、言えなかった。なんでもねえよ、乱暴な否定は俺をわかりきった恋人にはすぐにばれる。すこし考えているような沈黙のあと、ゼロスは言った。


「こっち、薄明るいけど星が見えるよ、今日は夜が晴れてて、きれいだ」
「・・・なんだよ突然、ポエムでも読む気かよ」
「ロイドくん、あのさロイドくん、俺が今見てる星は九時間後、ロイドくんのところに届くよ、おんなじ世界だよ」
「・・世界とか、規模がでけえっつーの、バーカ」
「うんでもホントのことだよ、俺ロイドくんとおんなじ世界でよかった」
「あーもー恥ずかしいやつだな! も、切るぞ!」


電波の向こう、恋人は笑っていた。顔も見ていないのに見透かされたようで、俺はなんだか悔しくなった。


名残を惜しむように寝る前の言葉を恋人はいくつか言う。最後のおやすみにうなずいて、それからやはりひとこと伝えたくて、俺は口を開いた。


「あのさ、・・・・・さっきのちっと、嬉しかったからな」
「え、」
「っじゃ、おやすみ!」


逃げるように電話を切って、肘をついていたベッドに頭からダイブする。恥ずかしい顔を見られないのは、遠距離恋愛の唯一のいいところだな、と思った。