(ロイドたちはすでに亡くなっています、ご注意)




振り向くと、いつものように窓辺で本を読んでいる弟がいた。聞き間違えかと思って、もう一度話しかける。


「ロイドよ。ロイドの話なんだけれど、」
「だれだっけ、それ」


背筋が凍りつく。興味なさげな様子で活字を追う弟は、本当にかつての仲間のことを忘れてしまったかのようだった。


「・・・どうしたのジーニアス、そんな冗談、あなたらしくなくてよ」


動揺しながらもそう言うと、ジーニアスはようやくこっちを見た。不思議そうな表情で、何の話?と真剣に尋ねられて、こっちが戸惑ってしまった。


「姉さんこそ、らしくないじゃない。そんなにもったいぶって」
「・・・・・本当に、覚えていないの?」
「覚えてたら聞かないさ」


変な姉さん、と言って、興が冷めたのか、ジーニアスはパタリと分厚い本を閉じて立ち上がった。夕飯なにがいい、と何事もなかったかのように聞かれて、返事ができなかった。


黙ったきりでいると弟は勝手にキッチンで料理を始めた。私はその後姿をただ呆然とみていた。




さほど広くないキッチンは、今のジーニアスにはもはや手狭だった。私の肩ほどの身長だったのはとうの昔のことで、数十年の時を経て、弟は手足のすらりとした青年になって、時折窮屈そうに身を屈めていた。


その背を見つめながら、一体どうして弟は親友のことを忘れてしまったのか、ずっと、考えていた。


ロイドは、たしかにずいぶん昔に亡くなった。以前の仲間も、みんな、その前後数年のうちにいなくなってしまった。今はときおり世界樹の下のユアンを私ひとり訪ねるくらいで、他との交流はあまりなかった。定期的にふもとの村に買い物に行く程度だった。ジーニアスが最近はあまり外に出たがらないから、この二、三十年はそうして過ごしている。


けれど、時が経ったとしても、忘れてしまうものだろうか。あんなに親しく、大切だった人間のことを。



思案に耽っているうちに、ジーニアスの料理が出来上がって運ばれてきた。


シチューの入った小さな鍋を持ちながら、あつつ、といささか慌てる様子はいつもの弟のそれで、私はますます困惑した。


食事を摂りながら様子をそれとなくうかがっていると、不意に、ジーニアスと目が合った。ジーニアスはため息をついて、カチャリとスプーンを置いた。


「どうしたの?さっきから、変だよ?」
「・・・いえ、」
「そんなにじっと見られてたら、ご飯も食べられないよ。ねえ、なに?」
「・・・・・あなたが、ロイドのことを忘れているとは、思っていなかったものだから」


すこし気を悪くしたようだった。眉根に皺を寄せて、それきりジーニアスは黙ってしまった。




食べ終えて、後片付けをしていると、ふと、お皿を洗う手を止めて、ジーニアスは言った。


「ロイド、だっけ」
「え?・・あ・・ええ、」
「なんとなく思い出したよ、小さい頃一緒にいた気がする」
「・・・・そう、」


ジーニアスはまた、スポンジをお皿に擦りつけ始めた。キュ、キュ、という音が虚しく響く。


「ぼく、僕ね、姉さん」
「なにかしら」
「人間て、この泡みたいなものだとおもうんだよね」


どういうことだろうかと思いながら、スポンジと弟を見比べた。弟は淡々と言う。


「水を流すと、すぐに消えちゃうだろう?そうすると、僕たちがこの皿だったり、杯だったりするわけだ。いつだって、僕たちだけ残される。泡はすぐに消えてなくなる。でも皿や杯には泡が不可欠で、だから補い合って生活しているんだ」


だったら、ねえ、とジーニアスは顔を上げ、私をみた。ザァザァと、水の流れる音がやけにうるさかった。


「残されるって、わかっているなら、知らない方がいいと思わない?忘れる方が、楽だと思わない?どんなに仲よくなったって、どんなに大切だったって、人間はすぐに僕たちを置いていくんだ。僕たちだけ、悲しい思いを引きずって生きていく。僕は嫌なんだ、そんなのは耐えられないんだ、だから―――忘れることにしたんだ」
「・・・・わすれる、って、」
「全てを、僕と関わるすべての人間を、忘れることにしたんだ。何度も何度も、思い出さないように・・・・・思い出に蓋をした」


気がつくと泡は水に流されてもうなくなっていた。あの頃の弟も、もう、そこにはいなかった。



部屋を出て行くときジーニアスは振り返って一言だけ残した。


「姉さんは意地悪だね。僕、さっきの名前を聞いてから、なんだか胸が苦しくて苦しくてたまらないんだ」


きっととても大切なひとだったんだね、と、他人事のように口にする弟は切なくて、とても、見ていられなかった。