(注意、現代パラレル)


控えめなノック二回、チェアをまわしてふりかえり、どうぞと答えた。ためらいがちに開かれたドアからはちょこんと弟の顔がのぞいている。

「どうかしたの? お風呂は、まだだよね?」

ふるふる、首を横に振って片手、そっと突き出した。数Tの教科書を持っている。視線はとまどいがちに、僕をうかがっていた。

めずらしいことだった。ラタトスクの方が僕より理系は得意で、試験前になると僕が細かいところを質問しに行くことの方が多かった。逆に僕は、英語や古典を聞かれる方だったのだ。

すこしおどろきを覚えながら、いいよと言って手招きをした。ドアを閉め、ラタトスクは部屋に入ってくる。机と本棚の間にたたんであった小さなテーブルを取り出して脚をひらき、机のうしろに広げた。ノートの上からはシャーペンを取って床にぺたりと座る。向かいのラタトスクにはベッドの横に置いてあったクッションをわたしてやった。

「で、どこがわからないの」
「・・・判別式が、いまいちわかんねえ」
「ああえーと、・・・・・ここのページかな?」
「ああ」

教科書に書き込みながら、ゆっくり解説する。数学の説明はあまり慣れていないから時間がかかったけれど、飲み込みの早いラタトスクは僕の言うことをすぐに理解してくれた。十数分で、短い補習は終わった。教科書をぱたんととじて、僕は顔を上げる。

「今日はなにかあったの? ラタトスクならこれくらい、授業を聞いていればわかるよね?」

う、と一瞬口ごもったが小さな声で、ラタトスクは言う。

「・・眼鏡を、忘れた」
「えっ、なんだ言ってくれたら僕のを貸したのに」

いま僕の席は一番前だし、うちのクラス体育と家庭科と国語だったから、たいして眼鏡も必要なかったのに。けれどラタトスクは、ちいさくうつむいた。

「おまえの、度がつよくてよく見えねえ」
「・・・・・あ」

最近つくりかえたレンズを思い出し、そういえばそうだったと気がついた。近視がすこしすすんで、僕は弟より目がわるいのだった。
話のおわり、あんまり遅くまで勉強するなよと言い残してラタトスクは部屋を出て、それから一度だけもどりそろそろ風呂が沸くぞと呼んだ。うなずいて僕は立ち上がった。


* * *

目を覚ますともうすっかり夜遅かった。時計を見ると、夕方帰ってきてベッドに飛び込んでからもう三時間も経っている。ラタトスクは帰ってきているだろうかと寝ぼけ頭で考えながら、しわくちゃのシャツを脱いだ。部屋着に替えるとぐうとお腹が鳴いた。気だるさののこる身体をひきずって部屋を出ようとするとちょうどドアに手をかけたとき、目前でノックが呼ぶ。ノブを回して引くといくらかおどろいた顔で、制服姿のラタトスクが立っていた。のんびりと僕がおかえりと言えば、ああ、とうなずく。それから首を傾げた。

「今日は、早かったんだな」
「え? ・・・ああ、昨日が提出だったから」

提出というのは家庭科部の、個人製作のことだ。数日後に迫った地域の展覧会のためにこの一週間はずいぶん遅くまで学校にのこっていた。そういえば家に帰ってからもひとりでラタトスクのつくったご飯を食べてシャワーを浴び眠るだけで、面と向かってラタトスクと話すのはずいぶん久しぶりな気がする。この前、数学を聞きに来て以来かもしれない。

「あ、えっと、なにか用だったの?」
「・・・べつに。いるかと思っただけだよ」
「そっか。ラタトスクはいま帰ってきたとこ? だよね、バイトおつかれさま」
「・・・・ああ」

短く答えてラタトスクは背を向け、学生鞄を肩から下ろしながらとなりの、自分の部屋のドアに手をかける。その背に声をかけた。

「ラタトスク、ごめんね最近ご飯もつくれなくて。今日は僕がつくるから、出来たら呼びに行くね」


こくん、首を縦にふり、ラタトスクはドアのむこうに消えた。ふたり暮らしなのに先週今週は、ラタトスクにばかり負担をかけてしまった。今日はとっておきの料理にしようと、僕は階段を降りながらトレーナーの腕をめくった。


食事中にラタトスクは、あとで数学をみてくれないかと僕に言った。聞けば、今日も眼鏡を家に忘れてしまったらしい。久々の弟との時間がうれしくて、僕は一も二もなくうなずいた。
お皿を洗ったら上に行くから、部屋で待っていてくれと言ったとおりに、ラタトスクは僕のベッドに腰かけ待っていた。前回と同じようにテーブルを持ち出すと、弟はそっと数学の教科書を広げた。

fxや@、グラフや方程式の話のあいだに、一週間分の会話をした。会話といってもいつも僕が話を振るばかりで、ラタトスクはたまに喋り、あいづちを打つだけなのだが、居心地よくて、楽しかった。気づけば時計はもう十時を回っている。長引いたのをあやまりながら、僕はさっきから気になっていたことを口にした。

「あのさ、ラタトスク、」
「ん、」
「・・・ラタトスクが、こんなに頻繁に忘れ物するなんて、めずらしくない?」

弟はぎくりという顔をした。とはいってもそれはごく些細な変化なのだが、十六年間双子の兄をしていればそんなもの、手に取るようにわかるのだ。どうしたのと数度問い詰めると、ラタトスクはもごもごと、言った。

「・・・・・・ほんとは、わざとだ」
「え?」
「っわざと置き忘れたって言ってんだ! ・・なんども言わせんな、ばかエミル」

そっぽ向いたその頬は真っ赤に染まっている。見惚れてしばらく理解が及ばなかった。ようやく頭が追いついたころ、問いかけるような視線がちらりと僕をかすめるからつい、わらってしまった。途端、笑ってんじゃねえ! 怒声が飛んでくる。僕はお腹を抱えた。ラタトスクの拳がドンとテーブルをたたく。思わず浮いた小さなテーブルに、おどろいた弟は反射的に、びくりと肩をふるわせた。(ああもう、かわいいなあ!)

大笑いがやっとくすくすになったときには、ラタトスクはすっかりへそを曲げてしまっていた。膝立ちに近づいてぎゅうと抱きしめると、すねた目が見上げてくる。さびしい思いさせてごめんね、今日は久々にいっしょに寝ようか、耳元で問うと返事はなかったけれど、その耳はカァと赤くなって答えてみせた。好きだなあというきもちが胸を鷲掴んで、僕はぎゅうぎゅうと抱きしめる腕に力を込めた。