あ、 声を上げたのと、ふりむいた彼の手がつかんだ岩の欠けたのは同時だった。ああ助けなきゃと、反射的に足が動いて手が伸びる。滑る景色、止まる時間、消えた音。刹那の沈黙のあと、走った衝撃。ドスンだとかグキリだとか妙な悲鳴がそこかしこで聞こえたけれど、いつのまにかどれも消えていた。 サワ、サワリ、微かな音のもどるのにふと気がついて身じろぎすれば激痛が走って、頭にまで響いた。痛みを恐れてそっと目蓋を持ち上げると、わずかに差し込んでいた光が陰った。 「・・・ぅ・・・・ん、」 「っ!少年、だ、だいじょうぶ、か・・・?」 ぐわんぐわん、反芻する声、あまり聞き覚えはないが、たしかに知っている。ええとだれだっけ、思い出したのはぼやける思考より痛む鼻の方が先だった。強烈激烈、つよすぎるこの匂い、ああ、 「デ、クス・・?」 「しょうねん・・・・!」 がばり!覆いかぶさられてむぎゅうと息が抜ける。ぎしぎし悲鳴を上げる身体のことをなんとか訴えれば、あわててデクスは僕を離した。 「うああすまん!無事だとわかって、つい、あ、その、だいじょうぶ、か?」 「うう・・・えっと・・・・おなか、すいたかも・・」 「っ!ま、待ってろいまなにか食べるもの、とか・・・!」 「ぁ、」 ええちょっとまっていかないでと、言う前にデクスは行ってしまった。残ったのは鈍い痛みと土の匂い、音のない世界に揺らめく焔。じょじょに明確になってきた視界にたよれば、どこかの洞窟らしかった。隙間風が時おり地を這うけれど、すぐそばにランプが置かれていたせいでさいわい寒くはなかった。 それにしても傷がいたむ、いったいいつ帰ってきてくれるのだろう、出て行ったきりでマルタは心配しているだろうか。しばらくぐるりと、めぐる思考の渦に身を任せていると、ザッザッと地を蹴る音が大地を伝わって鼓膜を揺さぶった。うっすらと頭をかたむけて見れば、背の低い洞窟をかがみながら走ってくるところだった。 「デクス、」 灯火を揺らめかせながらバタバタと帰ってきたデクスは火の前にどっかと座り込むと、身体の前で抱き込んでいた両腕をそっと放した。 「すこし、頂戴してきた・・」 そう言って並べられた、小ぶりなたまご、ふたつ。はあ、とうなずけば、慌てた顔でデクスは言う。 「!ち、ちゃんと、親にはことわってきたぞ!」 「ことわ、る?」 「ああ、四つあったから、ごめんなさいふたつもらいますって!ちゃんと!」 目が勝手に、ぱちくりと動いた。意外だった。おどろいているうちにテキパキと、デクスは調理を展開していく。卵を火にかけて、背負っていた袋からパンを取り出して炙って、出来上がった簡単なサンドイッチを僕に差し出す。ほかほかと湯気を上げて半熟をふるわせたそれを、手の上手く動かせない僕の口にデクスが運んだ。ひとくちひとくち、卵がこぼれないよう気をつけながら千切ってくれるようすは、どこか親鳥に似ていた。狭い洞窟に香水がきつかったけれど、噛み締めたパンはあったかくておいしかった。 お腹が満たされるとすこし、痛みも和らいだ。デクスが持ち物をひっくり返して探してくれたグミをもらったのもあって、痛みは残りながらもいくらか身体は動かせるようになった。この分なら明日にはマルタのところにもどれるだろう。何度か伸びをすると、デクスはほっとしたようだった。ふりむいて、お礼をいう。ありがとうと僕が言うと、デクスはぱちぱちとまばたきをした。 「?・・・どうかしたの?」 「え、あ・・ああ、あんまり、人にそういうの、言われたこと、なくってさ、」 わるくないもんだなと、照れくさそうに頭をかく仕草はどこからみても普通のお兄さんで、僕はなんだか不思議なきもちになった。 アリスに従って、大勢の人の命を奪った、デクス。ひどい男のはずなのに、やわらかい表情からはちっとも、そんなことは想像できない。そっと、身体を土に横たえながら僕は言った。 「・・・・きみのせいで亡くなった人を、僕はたくさん知ってる」 ほのかに赤い洞窟で、揺らめいたのは、炎の輪郭だけではなかった。強張った、デクスの表情。僕は目を瞑った。 「・・・でも僕、デクスはけっきょく、ほんとうにわるい人じゃ、ないんだとおもう」 息を呑む気配があった。呼吸から伝わる、かすかな震え。僕はとうとう核心を口にした。 「どうして、人を殺したりしたの」 しばらく返事はなかった。けれどやがて、隙間風に乗せてぽつりと、デクスが言う。 「アリスちゃんが、そうしろって、言ったから」 しっかりとした口調だった。目蓋を持ち上げて、ゆっくりと振り返る。デクスは僕ではなく、僕のむこうに誰かをみていた。 「アリスちゃんがいないと、俺の世界には意味がないから」 真摯な瞳、低い声。伝わる真剣に、僕はああもうなにを言っても無駄なのだと悟った。だからもうなにも言わなかった。しばらくすると睡魔が勝手にやってきたから、それに身をゆだねた。 そうして朝が来るとデクスはもういなかった。仲間だったわけじゃない。なにも、変わったわけじゃない。それなのになんだか、どこかにぽっかりと穴が開いてしまったような、そんな気がした。出会い方がちがっていればきっと僕たちはいい友だちになれた。 洞窟のむこうでは眩しい陽が微笑んでいる。僕は身を起こした。 そうして暗い穴ぐらに、その日の秘密は、そっと隠した |