漆黒、翻しながら大理石を駆けた。足音を消す術は数年で学んだ。時折り雲間からのぞく月ばかりに見られながらそっと、城の裏門を出る。門番にはいつもの感謝だと酒を渡しておいた。弱いことは知っていた。

金色の草原に出て、ふうと息を吐いた。それからわざわざ用意してきたマントにひとり笑う。(…こんな綺麗な満月じゃ、逆に、目立ったな)けれど休んでいるひまはない、一晩のうちにやることがたくさんあるのだ、すべるように、けれどわずかの解放感を押し切れず小さく舞うように、月に照らされた野を走りゆく。春の夜はさらさらと風花が吹いておもわず微笑んでしまうほどに、うつくしかった。

騎士学校には何度か奨励に訪れたことがあった。どうにも間がわるく、彼の姿を見かけたことは一度もなかったが、その造りはあるていど把握していた。元来建物の構造には聡い。そうなるよう学ばされた。なにかあっても抜け道を見つけられるようにと、老いた師はすこしばかり悲しげに言った。先生ありがとう、感謝しながらそっと、薄暗い塀をよじ登る。なんと粗野な、乳母が見たら卒倒してしまいそうだ、ごめんなさい不良王子は建物と建物のあいだ、レンガの重なった細い道を夜盗のように。

しかしこの道をゆくのは一年ぶりだ。毎年きっかり同じ日に来ているのだからまちがいなく。彼はまだ同じ部屋にいるだろうか、二人部屋の窓側のベッドに同じ顔が寝ているだろうか。学校を辞めたという報せはないから通っているのにはちがいないだろうがと、考えながら去年とおなじところで足を止める。

奥行きの長い生徒宿舎、手前から七番目奥から四番目、そうこの部屋だった。はたして、屈みのぞきこんでおもわず笑みがこぼれた。疲れて眠りこんでしまったのだろうか、制服のままうつぶせで、こっちを向いてすやすやとよく眠っている。

開けっ放しのカーテン、差し込んだわずかな月明かりでも夜に慣れた目にはよく見えた。やすらかな目元、いくらか、頬が鋭くなったような気がする。背も、ずいぶん伸びたように見えた。赤銅色のくせ毛だけがかわらない。

こみ上げる感情にすこし胸をおさえ、同室者の壁を向いて眠っているのをたしかめてから塀を降り、ゆっくりと、ガラス戸を持ち上げた。わずか、指の一本、通るだけ。入り込んだ夜風に寝顔はぴくりと身じろいだ。(さむいかな、…ごめんよ、)

胸の内から取り出した一本、窓辺に差し込んで、音の立たぬようひっそりと閉じた。金色、一輪のウィンドルの花。国の名を冠したこの花は、遥か昔、何代も前の時代からこの地に咲いているという。春になればその実を結び絢爛に花開いて、多くの人々に愛される。

ふたたびおだやかになった寝顔、ひとしきり眺めて、踵を返した。夜が明けかけている。ベッドにもどって、おとなしく眠っていたふりをしなくてはいけない。マントで顔を隠し、元来た道をもどる。あくびをかみ殺し、明くる一日の睡魔に苦笑しながらもただ、満足していた。

(――三年前の今日、僕ときみが出会った日のことを、覚えているかい?)


そうして、あいつは俺が涙を流していることを知らない。

勝手なもんだよ、頬を拭って起き上がる。毎年と同じくそこにはウィンドルの花が一輪、かがやいている。やわらかな花びらを指の腹で撫ぜて、俺はベッドを下りた。護身の刀だけ持って、部屋を後にする。薄暗く人気のない長い廊下、左手の甲をさすりながら歩いた。眠らないように身体の下でずうっとつねっていた左手はすっかり腫れてしびれてしまっていた。けれど、去り行くその背を一目でも見られたのだからなにも、惜しむことはない。

どこに行くのかね、朝の欠片の見えた途端に目を覚ます老教官が見咎めて入り口で聞いた。ちょっと稽古にと言えばじろりとにらみながら、励めよと言って去って行った。どうもと会釈して扉を開ける。昇りかけた朝日はそれでも薄暗かった目にはまぶしくて目を擦り、それから、俺は駆け出した。早朝の春、パン屋のご主人に挨拶しながら石畳をゆく。自然と足は速まった。急く。風よりもはやく、あの場所へ。

宿屋を通り過ぎて広場を曲がって、ゆるやかな上り坂、未だ眠る露店を越してそうして街の門をくぐる。走って、走って、そうして走り切った先にはあの日の丘があった。この風景を守りたい、あいつが言ったあの日の丘。

鐘が鳴り響き鳥が飛び立った。俺は息を切らして、そこに立つ。うつくしい、一年、二年、三年前あの日とかわらないうつくしい世界。風花が舞い、原素が微笑み、やわらかな風がおはようと撫ぜては吹いてゆく。(俺は、…俺たちは、この世界を守れているかな? …ちがう、守る、だよな)

丘の草花にはわずかであったが、ゆるく踏まれた跡があった。命散ってしまわぬようにそっと、歩んだあいつの痕跡。そうして小指ほどの大きさの、赤い宝石が緑のあいだに置いてある。しゃがみこんで調べてみればそこだけ、花が数本引き抜かれていた。

代金のつもりなのだろう、最初の年からいつもここには何らかの贈り物があった。花の代金にしては高すぎる、毎年俺は笑う。そして、ポケットからぐしゃぐしゃの紙を取り出すのだ。広げて宝石のかわり、野原にそっと。『来年は正面から会いに来い』右上がり、俺の文字だときっとすぐあいつは気づくだろう。ひとりで満足して、立ち上がる。

きっと、ここにあいつがもう来ないということは、よく知っていた。そう何度も王子が城を抜け出すほど、ひまでないのはわかっている。けれど毎年こうして文句を書いてはここに置いた。すこしでも、バカなあいつに届けばいい。寝顔を見て去るよりも、直に会って笑った方が何倍だって、楽しいだろうに。そう思うけれどこっちから会いに行ってやるのは癪だから、紙に託す。

リンゴン、リンゴン、鐘が鳴る。起きぬ駄々っ子を鐘が呼ぶ。大きな音、響き渡る音、紛れて俺は腹の底からその名を呼んだ。声は残響して風を揺らし、そうして鐘とともに消えた。俺はゆっくりと丘に、背を向ける。

(…リチャード、なあ、聞こえたか?)

ザザア、強い風がコートをなびかせ、大地を揺らした。振り返ったとき紙はもうなかった。おそらく今の風で飛んだのだろう。願わくは、めぐりめぐってその金髪にたたきつけろ。

宝石は道端に座り込んでいた少女にやった。頬のこけた子だったが笑えばかわいかった。待ってお兄さんこれあげる、手渡されたのは金の花、つくづくこいつに縁があるらしい。ありがとうと受け取って、大きく伸びをした。ひどく眠い、今日はきっとひどいミスでもして、教官に大目玉を食らうだろう! 学校中の廊下を磨いてもまだ足りないかもしれない! そうしたらおもいきりあいつに文句を言ってやろう! 三年目の朝、笑いながら俺は駆けた。

(――三年前の今日、お前に出会えて、俺はよかった)


マントを脱いで椅子の背にかける。もどってきたのは朝のはじまる寸前だ。

疲れに倒れこむ前に胸元のポケット、探ってもう一輪を取り出した。彼に置いてきた花の、となりに咲いていたそれ。机の上の花瓶に差し込めば昇りきった朝日に微笑する。花びらの大きく開いた華美な花の多い中で、素朴なウィンドルの花は少々浮いて見えたが満足だった。

朝の鐘が鳴りひびく。窓辺の鳥が羽ばたいた。その声を聞きながら服を脱いで、ベッドに置き去りにしていた寝巻きに身を包む。やわらかな毛布のあいだにすべりこむと身体がギシリと悲鳴を上げた。フアアア、大きくあくびをしてわずかの眠りにつこうとしたそのとき、ふと、なにかが聞こえたような気がした。

(…いや、鐘の音か)

ふたたび目をつむって、それからひとり笑う。

(…彼の声に思えたなんて、そんな、はずがないのだから)


何年目か、いつかの朝の、再会を祈って


(2010.0321)