アスベルヤンデレ注意


リチャードが立ち上がる。アスベルはつられて目で追った。並びベッドに腰掛けていたリチャードはかろやかな身ごなしで踊るように窓辺へ。大きく切り取られた石壁の四角い斜陽を浴びた金糸がきれいだ。アスベルがおもわず目を細めると、リチャードも振り返って微笑んだ。

「ねえアスベル、こっちに来てごらん」

誘われるままアスベルはそのとなりにゆく。リチャードの私室は塔のひとつのてっぺんで、窓から顔を突き出すと城下が一望できた。危ないよ、やわらかなリチャードの手が二の腕を引き戻すのでアスベルは向き直った。どうやら景色を見せたかったわけではないらしい。飴色のひとみをくすくす笑わせてリチャードはその人差し指をピンと立て、かたちのよい唇に押し当てた。

ぱちくり、意図がわからずまばたき、首をかしげてようやくアスベルの耳に届く。…歌声だ。リチャードが目を細める。

「ときどき聞こえてくるんだ。この前気になって近くの部屋をのぞいていたら、若いメイドが歌っていたよ。…きれいだろう?」
「ああ、…そうだな、とても」

少女の声は遠く、歌詞まではこちらに届かない。けれどおぼろげな歌唱はそのために神秘を深めているようにおもえた。歌声を聴きながら、昼夜の入り混じった刹那的な街並みを眼下にながめひどくやさしく微笑む王を、アスベルは穏やかに見つめていた。


ひまをみて遊びにくるといつも門まで見送りたがるリチャードを丁寧にことわり、アスベルは王の私室を後にした。と、階段を下りる途中、ふとその足を止める。赤い絨毯の染みを落としていたメイドと目が合った。反射的に彼女は頭を下げる。アスベルは二、三段下りると少女とおなじ目線にしゃがみ、顔をお上げと話しかけた。栗毛色の髪の少女はおずおずと言われたとおりにすると、困ったように視線をさまよわせた。小さな鼻のまわりにそばかすのいくつか散った純朴な少女だ。歳の頃は十六、七といったところだろうか。そういえばリチャードの部屋に紅茶でも運びに来たことがある気がする。うっすらと見覚えがあった。名前をたずねると小声で返事をする。アスベルは快く笑った。

「さっき、歌っていただろう? 向こうまで聞こえていたよ、なんて曲なんだい」

メイドは驚きながらも、はにかんでアスベルの問いに答える。ひとつ話し始めると年頃の少女らしく、はなやかな声が舞った。

「春恋の鳥といって、わたしの故郷では愛しい人に贈る歌なんです」
「そうか、…いい歌だね、きみ、生まれは? …そうか、以前一度、避暑に行ったことがあるよ、湖がきれいで、いい街だ。…ああごめん、掃除のじゃまをしてすまなかった、それじゃ」

メイドは名残惜しそうに、立ち去るアスベルの背中をみつめていた。少女はじつは、王城をたびたび訪れるアスベルにひそかに恋慕を抱いていたのだが、アスベルがそれを知る由もなかった。

* * *

「そういえば近頃彼女、城を辞めたらしい。なんでも実家で不幸があったそうだ」

彼女? ベッドに寝転がったリチャードが重たそうに目蓋を持ち上げる。ゆるやかな曲線を描くその頬を撫ぜてアスベルが言った。

「ほら、このまえ言っただろう、歌をうたっていた、メイドの」

数時考え込み、リチャードはうなずく。

「…ああ、そういえば。そうか、辞めてしまったのか。残念だな、ときおり聞こえるのを楽しみにしていたのに」
「辞める前に一度だけ話したよ、そうだ、歌の名前もきいたから、今度俺がうたってやるよ」
「ほんとうかい?」

リチャードは途端に目をかがやかせて身を起こす。アスベルはわらってもう一度、その胸に手をついてベッドに倒した。あとにはただくすくすという笑い声だけがのこる。

窓の外では夕雲が揺れ、夜の訪れを報せる鐘が鳴り響いた。おどろいた小鳥は一斉に屋根を飛び立って白い線をつくる。

かわいそうなこまどりのため 鳴り渡る鐘を聞いたとき 空の小鳥は一羽残らず ためいきついて すすり泣いた

憐れな少女の故郷では、それから鳥の姿がとんと、見えなくなってしまったそうだ。



※一部マザーグース引用

(2010.0817)