「わあっ」幼子のように素直な歓声に顔を上げると、となりでまどろんでいた彼はいつのまにか身を起こし、窓の外を見ていた。冷えますよと剥き出しの肩に毛布をやると、そんなことよりと彼は外を指差した。レースのカーテンの向こう、僕は目を細めてああと気がついた。雪だ、もうとっくに春は始まっているというのに季節はずれのはらりはらりと、うすぐもりの空から散っている。今年はいつになく冷たく淡い春のはじまりであったから、降ったとしてもそう不思議ではないが。

ねえヒューバート外に見に行こうよ、無邪気な子どもが大きな手で僕の二の腕を揺すった。小さく軋んだベッドに呆れながら、身体の調子は大丈夫なんですかと尋ねる。彼はしばらく首をかしげていたが意図を理解すると顔を真っ赤にさせて、大丈夫にきまっているだろうと背を向けベッドを降りた。床に足をついた瞬間、反射的に腰に手を添える仕草は朝だというのにそそられた。身体だけは大人の男は向こうを向いたまま、脱ぎ捨てた服をそそくさと身に纏う。しろくすべらかな肌には点々と昨夜の情事の跡が朝陽に浮いて、起き抜けの僕を無意識に誘う彼はなんてひどい男なのだろうとため息をついた。

あるきやすいショートブーツを履いてトントンと床をたたくとせわしなく彼は小屋を出た。開いたドアから差し込む直接的な冷気、ぶるりと震えて首まで毛布をひとりじめする。(ひとりだから、当然なのだけれど)さっきまでひとつにふたりで包まっていたせいですうすうと寒かった右肩も今はあたたかい。しばらくそのまま、膝を抱えていた。そうしてむくりと起きた。コーヒーでも飲みたくなったのだ。ひとりの毛布が寒かったからとか、そういう理由ではない。

皺を伸ばして服を着て、顔を洗ってお湯を沸かした。以前はポットを使うときに眼鏡のくもるのが嫌でいちいち外していたがあるとき彼が「どうしてだい? くもった方が、あったかいかんじがするじゃないか」とさも不思議そうに言ったのがけっこうつぼで、以来まあかけてもいいかという気になった。繊細な見た目とは反対に、彼のときおり見せる無頓着は嫌いではない。

一間の狭い部屋で湯気が立つとほわり、部屋中があたたかくなる。コーヒーと、彼用のココアを入れて慎重に、小屋のドアを開けた。森は寒く、雪はゆるく降っているがほとんど積もっていなかった。地表に触れるなりしゅんと溶けている。小花や緑の木々はいつもとかわらず、妙な天気にきょとんとしているようにも見えた。

背中で閉めると、すぐそばにしゃがみこんでいた彼が僕をふりかえる。てっきり明るい顔をしているものと思ったがなぜか元気がない。

「どうしたんです、揚々と出て行ったのに」
「…ヒューバートが、死んでしまったんだ」

噴いた。なんのはなしだ僕は生きているぞ! 両手のマグを取り落とさなかった僕の耐久力は褒められていいと思う。しゃがみこんで同じ目線、なにがあったのかと聞いた。すると彼はおわんのように合わせた両手を僕に突き出した。てのひらには、微量の水がたまってふるふると震えている。

「…なんですか、これ」
「ヒューバートの…残骸? というのかな、切ないね」
「勝手に殺さないでくださいああでも、そういうことですか、」

大方降ってくる雪を必死で集めて小さな、(水の量から類推するに、)指先ほどの雪だるまをつくって僕の名前を勝手につけてそして体温であやめてしまったのだろう。数ヶ月の付き合いでそこまで恋人の行動を読んでしまう自分がいささか虚しい。マグがぬるくなってきて手持ち無沙汰だ、どうしようかと思っているとふと彼が言った。

「雪だるまというものを、この年になるまで作ったことがないんだ。フェンデルはすぐそこだけれど、長年緊張状態がつづいていたし、ウィンドルで降っても、風邪を引いては大変だと城の者が止めるから」

長いまつげが影を落として、胸をわし掴まれたような気分になった。彼はしばしば一般家庭への憧れを口にする。たとえば母親と手をつないで街を歩いてみたかったとか、影踏みやかけっこだのをしてみたかっただとか、そんなささいなことだ。そのたび僕は今のような気分になって、その手を握って、頭を撫でてやりたくてしょうがなくなる。あいにくと今日は左手も右手もふさがっていた。しかたないから、口で言う。

「…また来年、つくればいいでしょう」

そのときはきみ手伝ってくれるかい、わずかに瞳にひかりを取り戻した彼が問う。まあ、となりにいればね。離れるつもりなど毛頭ないのにそう答えてやると恋人はひどくうれしそうに微笑んだ。きっと僕の心情などわかりきっているのだ。だが彼に理解されるのはそう悪い気はしない。立ち上がった。

「さあ、もどりましょう。コーヒーも身体も冷えてしまいます」
「ああ」

うなずいて彼はてのひらの、かたちのない約束を近くの花にやる。ふるり、桜色の花びらは震え、雲間からひかりが差した。春はもう始まっている。次の冬が来て僕らが霜焼けの手をつないでわらうのは、そう遠い日のことではない。

桜色の春に約束をそそぐ



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今年は春に雪が降りましたね
陛下は厨二で天使で妖精さんで最終的には神だとおもってる

(2010.0503)