いつのまにか、見下ろしていたのが見下ろされる側になってしまったなと、となりの横顔を盗み見ながらリチャードは思う。数年前再会したときと比べてやや骨ばって男らしくなった顎のラインや、スッと凛々しさの増した目元を視線でなぞると恋人がひどく愛おしくなった。歩きながら繋いだ手に力を込めるとそれより強い力で、けれど手折らぬやさしさで包みこんでくるのに胸が詰まる。

木の幹が地面に突き出ているから、気をつけて。草木の乱暴に茂って安定しない森の道をゆきながら、リチャードは耳元で言った。ヒューバートはいつになく覇気のないようすで弱々しくうなずく。その仕草がおかしくてリチャードはついつい肩を震わせてしまう。指先からは敏感に伝わった。抗議するようにヒューバートが腕を引いた。うわ! 油断していたリチャードはバランスを崩して背後に倒れ込む。すっぽりと恋人の腕に収まってしまった。笑われているのはいやでもわかる。腰に回された手は楽しそうにわき腹をなぜた。頬を薔薇に染めたリチャードが真上をにらむ。

「…見えないくせに」
「はい、あなたの照れた顔が見られないのが残念です」

くすくすと笑うのにカッとなってもがく。しょうがないなという風に束縛をゆるめる腕はひどくやさしかった。


朝方、ベッドでリチャードが寝返りを打った拍子にヒューバートの眼鏡をつぶしてしまった。怪我はなかったけれどつるが片方だけゆがんだそれはちぐはぐで、耳にかけると奇妙に傾いてずり落ちてしまう。手で支えてみてもまともにかけられず、ずっとレンズをのぞいていると頭が痛くなってしまうのだそうだ。リチャードは何度もあやまったが、昨夜は酔っていてベッドサイドに眼鏡を置かなかったじぶんがわるいのだとヒューバートが止めた。そうして近くのラントの道具屋に、歪んだつるを直してもらいに行くことになったのだ。

着替えたふたりは早朝に家を出た。視界のわるいヒューバートを誘導しながら涼しい川辺をあるき、木こりのかけた丸太の橋をよろよろ渡り、小一時間ほどしてラントに着く。普段ならこの半分の時間もかからないのだが、ヒューバートの眼鏡がないせいで何度もつまずき時間がかかってしまった。水門のそばにやってくるとリチャードはヒューバートひとりを街にやった。人目を忍ぶことは互いに暗黙の了解であった。


恋人が行ってひとり、木陰で身を休めていたが、眼前で初夏の朝にきらきらと微笑む水辺になんだか我慢ができなくなってきた。ブーツをそわそわと脱いでデニムをめくり、焼けそうな小石を爪先立ちであるいてやわらかな水の中に飛び込むとひざまではねて、心地いい! パシャパシャ、パシャパシャリ、つめたさを楽しんで小魚の歌いすりよってくるのに笑う。

ひとしきり水を愛おしんで、ヒューバートもいたらよかったのにと思いながら木陰にもどる。ハンカチで水滴をぬぐったがさすがに足りなかった。しかたないから足先だけ日向に突き出して、恋人の帰りを待つ。

太陽はすこしずつ高度を増してゆく。白熱に疲れた目をそっととじた。すこしだけよく聞こえるような気のする虫の声がきもちいい。まばゆい脳裏には間近で見た恋人の顔が浮かぶ。ふふ、とリチャードは笑った。

普段のヒューバートは、あんなに近い場所で、見られない。なんだかあのまっすぐな瞳に見られているとおもうと恥ずかしくなってしまってついそらしてしまうのだ。こんな機会はめずらしく、リチャードは不謹慎だけれどすこしだけうれしかった。それに、たまにあんな風に手放しで頼られると、自分の方が年上なんだとおもいだしてなんだかくすぐったくなる。

いっそずうっと外したままでいてくれたらいいのに、そう思ったときくしゃりと頭を撫でられた。思わず身構えると待ちわびた恋人が立っている。こんなところで気を抜いてしまうなんてなんという不覚、という気持ちと、あるいはヒューバートだから気づかなかったのかもしれないという気持ち半分、ほっと息を吐いた。

ヒューバートの手を借りて立ち上がる。草がつんつんと裸足にくすぐったい。王様も水遊びをなさるんですね、しみじみと言うのに笑いながらブーツを履いた。それにしてもと振り返る。恋人はいつもと変わらぬようすで角縁の眼鏡をかけていた。

「直ってよかった、ずいぶん時間がかかったね?」
「ああ、これまでにも何度か修理しているので。つるの部分は金属でできていますから、あまり負担をかけられないんですよ」
「ふうん、」

やはり見慣れているせいか、さっきは外したままでいいと思ったけれど今の方が好きだなとリチャードはおもった。しっかりしていて頼りになる、年下の恋人。いとおしい。日ごろ気ばかり張っている生活を送る彼にひととき頼れる相手がいるのはひどくしあわせなことだった。まじまじと見つめていると精悍な顔が不意にくしゃりと笑う。

「? なんだい、」
「…いえ、さっき、見上げていた顔が、かわいらしかったなとおもって」

途端にリチャードはカアッとなった。見られていたのだ、あの至近距離で、恥ずかしい! 慌てふためくようすにヒューバートはめずらしく声を上げて笑った。日の下に出たその笑顔がまぶしかった。

帰ったら今度は一緒に湖に行きましょうね、ゆるく手を絡めながらヒューバートが言う。もうつながなくても見えるじゃないか、悔しそうに言うリチャードにはかるく笑う。

「つなぎたいからつないでいるに決まっているでしょう」




(2010.0515 for 眼鏡祭)