水の国からやってきた絵画は、青々とした庭園の豊潤なうつくしさを湛えていた。自国のものとちがう水気の多い画材で描かれたそれにしばし魅入られる。「あなたが気に入ると思って」僕に手渡した恋人はそう言うと、中指で眼鏡をすっとかけ直した。照れ隠しなのだということくらいは、僕にもわかった。僕はとってもうれしくて、つい、締まりのない顔をしてしまう。しゃんとなさい、ヒューバートに怒られた。うれしいなあ。

絵画の描かれた蓋を開けると中にはその絵を構成する二千のピースが詰まっている。ジグゾーパズルをするのは久々で、わくわくした。ぐるりと部屋を見回す。仕様書によるとパズルは縦三十センチ、横が二十センチだ。ベッドサイドのテーブルでは小さすぎる。僕の部屋には窓際の文机くらいしか広げられそうな平面がない。ベッドを降りて机に箱を運ぼうとすると、フリルの裾を掴まれた。

「ヒューバート?」
「あなたは、もしかしてパズルをなさったことがないのですか?」
「? 幼い頃に、何度か遊んだ程度だけど、」
「パズルというものは、床で寝転んで作るものですよ」

…新説だ。



真面目なヒューバートが真顔で言うので、そうなのかと思ってブーツを脱ぎ、絨毯の上に座る。ヒューバートが赤い絨毯に厚みのある白紙を広げ、それを挟んで僕の向かいに腰を下ろした。横には見本の蓋を置き、キリリと腕まくりをする。僕も見習おうとしたけれどフリルがなかなか邪魔をする。しかたなく手袋だけ外して脇に置いた。

パズルを作りはじめる。四隅を探し、次に四辺を構成するピースを箱から取り出してゆく。画面は極彩色の花とうるおいの清水、豊かなみどりの三色に分かれており、判別はしやすかった。なによりヒューバートの手際がいい。枠組みは比較的かんたんに出来上がった。

その後はふたりでひたすらにピースをうめていく。彼は色合いの似て難易度の高そうな水辺をつくり、パズルは初心者の僕は形のわかりやすい右上の花を咲かせていった。実際に始めてみると、なるほど簡単にはピースは重ならずなかなか楽しい。なにより普段は冷静なヒューバートが、1ピースの合否に小さく一喜一憂しているようすが愛おしかった。こころなしか眼鏡の奥の瞳はかがやいて見える。

そんなことを考えていると、ふらり伸ばした指先が箱で触れた。僕があわてて引っ込めるより、硬い指がつかむ方が早かった。中指と薬指を捕らえられカアとなると、何食わぬ顔で恋人は言った。「ああ、すみません。パズルと間違えて」失礼、スッと離してヒューバートは下のピースをガサリと持ち上げた。嘘だ! 思わず口に出しそうになって寸ででこらえる。それじゃ策略に見事にはまったようで、悔しかったのだ。(…短く悲鳴を上げたから、触れたとわかったはずなのに)じっとにらんでいると早く作業を進めてくださいと、花柄の欠片を渡される。無言の非難を送っている間にも着々と画面下半分の水面は出来上がっており、僕はあわあわと手を伸ばした。


三時にはメイドがやってきたので、持ってきた紅茶と菓子を食べながら休憩した。まあ、素敵な絵ですこと! 出来上がったらどちらの壁に飾りましょう、目をキラキラさせるメイドには微笑み、考えておくよと返した。

けれど彼女の去ってパズルを再開してしばらくが経ち、僕はふとその約束は守れぬと気がついた。じょじょに姿を表しつつある絵画を僕は完成させたくなくなってしまったのだ。

その衝動は芽吹く南国の花々とともに目を覚まして茂る緑の下でむくむくと育ち、なみなみとした水を得てはっきりとその輪郭をあらわにする。それは名前を恐れと云った。

出来上がったら、次はいつ会える?

子どもじみた、けれど確固とした疑問。口にするのははばかられた。というより勇気がなかった。交際を始めて一月になるが、先に告げたのは僕だし、今日だって政務のため参った少佐を国王の特権で僕が部屋に呼んだ。パズルを完成させてしまったら、彼を帰してしまったらなんだかもうヒューバートは来ないような気さえした。

単純なはなし、僕には今まで次の約束をするような友だちがいなかったのだ。(アスベルはまたちがった種類の、友だちだし、)恐怖は生まれるといともかんたんに僕をそそのかした。

パズルを終わらせなければいい。ひとつだけフリルの内に隠してしまえばそれで済むのだ。そうしたら探しておくよと善人のふりをして約束を引き延ばせるじゃないか。なんと容易いことだろう。矮小な僕は生まれいづる誘惑に抗えなかった。

ヒューバートが手洗いに立った隙に散らばっていた1ピースを盗った。そうして左手の裾に隠した。硬いピースが服の内側、手首を伝う嫌な汗で張り付いて僕を責めた。気づいたらヒューバートはどんな顔をするだろうと胸が痛んだが、ドアの開く音が聞こえ慌ててパズルに目をもどした。


そのあとはまたふたりで床上の絵画に没頭した。(僕は本当は、袖のピースが落ちてしまわないか心配だったのだけど、没頭している、ふりをしていた)

そうして最後のひとつがないことに気づくとヒューバートは絨毯をめくったりして探したけれど、(当然のことだが、)どこを見ても出てこないと知れると割に潔くあきらめた体であった。そしてあっさりと言うのだ。「次はなくさないようにしましょうね」次? 思わず聞き返した。こともなげにヒューバートは二の句をつぐ。

「このままというのは悔しいでしょう、来月また違うものを持ってきますから、再戦しましょうね」

僕は、たぶん相当間の抜けた顔をしていたんだと思う。声を上げて笑うことのめったにない恋人は横を向いて笑いをかみ殺していた。

上着をはおらせ、城の門まで送って部屋にひとりもどり、樫のドアにずるずるともたれた。その拍子に気のゆるんだフリルの隙からピースがすべり落ちる。いたずらが成功して嬉しいような、恋人を騙して切ないような、不思議な気分だった。夕食に呼びにきたメイドに起き上がる。大切な人にする隠しごとはお腹が減るものなのだとは初めて知った。

+ + +

ヒューバートは約束通り、次の月も僕の城にやってきた。今度は私的に友人としてだ。僕は彼がみずから足を運んでくれたことがひどく嬉しかったのだが、人間の欲というものはほとほと底が尽きぬ。卑怯な僕はまたしても、南国の街並みを1ピース、懐にそっと隠してしまったのだ。

次も、その次も、その次の次もそうだった。集めた欠片は文机のイルカの小物入れに入れた。
自分の贈ったものがこんな用途で使われていると知ったらヒューバートは詰るだろうか。呆れられ、見限られるのはいやだ。そう思うのにピースを隠すことはやめられなかった。隠したと悟られるのを恐れて、ふたつみっつ、手にとることもあった。

僕は心の底で、彼を信じきれていなかったのだと思う。

しかし健気な恋人はいくつ月を重ねても何食わぬ顔でパズルを持ってきた。完成させて壁に飾るのがメイドとの約束ですから。ヒューバートは実に堅実で義理堅い。そんな誠実さがときおり僕にはまぶしかった。未完成の出来損ないのパズルたちは僕の洋服箪笥の上で箱に仕舞われ、恨めしそうに僕を見つめていた。


いっそすべてを打ち明けてしまおうか、そう思った矢先であった。いつものように欠片を仕舞おうと、イルカの背びれをつかみ上蓋を開けたとき、僕はそのメッセージを見つけたのだ。気まぐれに、ひとつ裏返して気がついた。文字が書かれている。

一瞬血の気が引いて、上蓋を取り落としそうになった。震える手で蓋を机に置き、よろよろと椅子に座りこんだ。

そうしてピースをひとつひとつ並べかえてようやく愚かな僕は気づくのだ。(ああ、どうか、間に合って、)手にしていた欠片を放り部屋を飛び出した。茶器を運んでいたメイドとぶつかりそうになり寸前で避ける。詫びて駆けた。廊下は走るなという古来よりの教えは治外法権で封じてやった。僕の城を全力疾走してとがめる者はせいぜいデール公の片眉ていどであった。

ブーツでカツコツと騒乱を巻き起こしながら階段を三段飛ばし、玄関に通じる廊下に合流して、なんだなんだと振り返る銀鎧のあいだを走り抜ける。今ならまだ間に合う、宿にもどると言っていたから追いかければきっと、そう思って城門をくぐり抜けた僕はつんのめりながらわたわたと、急ブレーキをかけた。探していた背中が見えたのだ。しかし全速力で駆けていた足は絡まってもつれ、あわや頭から転びそうになる。最後の理性で名を呼んだ。

「っ、ヒューバート!」

青い背中がコマ送りゆっくりと、ふりかえる。おどろき広げられた両腕に、倒れるように飛び込んだ。肺が痛い、と気づいたのは、大丈夫ですかと恋人にのぞきこまれたときのことであった。

体中の血が、沸騰しているのではないかと思った。落ち着いてください、諭す恋人の手を強く握った。

「ヒューバート、ヒューバートすまない、僕は、すまない、僕なんだ、僕が、」

しどろもどろつっかえつっかえ、情けない僕にヒューバートはふと笑う。そうして僕の手を握り返した。

"信じてます"

それはピースの裏に綴られたことばだった。涙あふれて止まらなくなる。嗚咽も気にせず僕は泣いた。人の目や羞恥のこころはかなた消えて、ただただ僕はうれしかった。

せめてと城門の内側に僕を押し込んだ恋人は門番に見えぬよう背を向けて、僕にそっと白銀の細い鍵を渡した。

ラントの近くに小さな家を造らせましたから。あまりにあっさり告げられたことばにしばらく理解が追いつかない。こほん、すこし照れくさそうに目をそらした恋人はぼそりと言う。

「次からは、あなたの会いたいときに僕をそこに呼べばいい。…そうしたら、きっと飛んでいきますから」

僕は恋人がどれほど僕のために心を砕いてくれたか知った。ヒューバートは何もかも知った上で僕を信じ、黙々とそのあかしを造っていたのだ。胸が熱くなる。

握り締めると、白銀は手の中で薄暗く光沢を放った。ありがとうと言うだけでせいいっぱいだった。ヒューバートはここが外じゃなかったらよかったのにとぼやいた。そうしたら抱きしめていたんですが。時折り漏れる彼の不満はすこしかわいい。

今度は僕がパズルを持っていく番だ。棚の上詰まれたパズルの箱を、今度は本当に完成させるために僕らの家に持っていく。まだ見ぬ家の壁にかかる南国の風景を思いすこしばかりほほえみながら、僕は城に向かってひとりあるきだした。


(2010.0805)