すまないね、あやまる男の顔はちっともそうは思っておらず、ヒューバートにはそれが何に対する侘びなのかわからなかった。すなわち、活発化する魔物の調査のため全員集まって欲しいと言われ来てみたらヒューバート独りにしか召集がかけられていなかったことに対してか、それともそんな風に謀った張本人のくせにちっとも悪びれていないことに対する謝罪か。

けれど、とヒューバートは顔を上げる。執務机に着いた男、形のいい唇の微笑が苛立たしい。(…絶対かたちだけあやまってみただけにちがいない)ギリギリと睨みつける視線を物ともせず男は立ち上がった。さらりさらり、ガラス越しの陽射しを受けてその金色を肩で揺らしながら国王は自ら、謁見に膝ついていたヒューバートの下までやってきた。優雅に伸ばされる黒いシルクの手を渋々取ろうとすればひょいと肩透かしを食らわされた。バランスを崩し床に手をついたヒューバートを意地のわるい、けれど決して悪意のない瞳が見下ろしている。(…たちのわるい、)今日はなにに付き合えば気が済むのです、隣国の王にではなく手のかかる友人に問えば、リチャードは嬉しそうに長い指を口元に寄せた。楽しい話をするとき彼はいつもそうした。その仕草が、ヒューバートはけっこう好きだった。

公務にかこつけて、また時にはありもしない公務を作り上げて隣国の王が自分を呼びつけるのはこれが初めてのことではなかった。むしろ最近ではその頻度が上がってきていると言ってもいい。どうしても忙しいときだけはヒューバートも断りを入れたがそれ以外は基本的に亀車に揺られ船に揺られふたたび亀者に揺られちょっと涙目で口元を押さえながらバロニアまでやって来るようにしていた。

初めのうち、ヒューバートは毎回律儀に私的な呼び出しを怒っていたが二回、三回とつづくうちにそれもやはりかたちだけになった。王は寂しいのだろうと思ったからだ。ヒューバートの兄アスベルはいつも忙しそうにしていて、(べつにヒューバートだってひまなわけじゃないのだが、)ようやく休みができたと思えばソフィや、それからシェリアがいるのだからそうそう時間はつくれないだろう。だから遠い隣国に居ようと独り身の僕の方が呼び出しやすいのだろうと自分を納得させる癖がついた。王は寂しい思いをされているのだから、自分には決まった相手もいないのだから、そう理由をつけて今日も身を化かした陛下と忍んで城下をあるく。

今日のリチャードは長い髪を後ろでまとめて白いシャツと身軽なパンツに身を包み、一見すればとても王には見えないラフな格好をしていた。そのおかげで煉瓦道をゆく彼に気づく人はそういない。通りすぎる気品に気づいたとしても、ああ国王様、お忍びでいらっしゃっているのだわ、バロニアの人々は秘密話をするようにさえずるだけで、やさしい王のプライベートを邪魔しようとする者はいなかった。いい街だな、唇の端をめずらしく持ち上げていると先をあるいていた彼がヒューバートヒューバートと忙しく名前を呼ぶ。キリリと引き結んでみせる唇は、けれど露店のなんてことはない品物に目を輝かせる小さな大人を前にしてやはり噴き出してしまった。買い物はいくらまでですよ、母親のようにたしなめる口調はひどくやさしく、また真面目にそれにうなずいて物見するリチャードの背は、浮かれて見えた。こんなところを部下にでも目撃されたら大事だな、苦笑していたヒューバートが声をかけられたのは、大輝石見下ろす広場でリチャードとふたりベンチに掛け、小さな飴玉を舐めかじっていたときのことだった。

突然呼ばれた名前におどろきながら顔を上げれば、久しく会っていなかった兄がそこには立っている。兄さん、思わず飴玉の詰まった袋を背に回し、立ち上がれば紙袋を抱えていた兄はすこし困ったように眉を下げる。

「なんだよ、二人で遊ぶなら、俺も呼んでくれたらよかったのに」

ずるいじゃないか、子どもみたくいう兄にごめん、反射的に謝りながら横目でリチャードを窺った。ゆっくりと立ち上がった彼は眉間に小さな皺をつくってアスベルに寄り添い、すまないね、心からの謝辞を送る。ヒューバートはなんとなし面白くなかったが、単純な兄の機嫌は親しい友人によってすぐに直ってしまうので、黙っていた。

その後は買い物に来ていたアスベルの荷を一度宿屋に置き、それから酒場の個室を借りて三人で飲んだ。
その日のリチャードはよく喋った。普段二人でそうするときの倍は話していただろう。アスベルもそれに付き合ってよく飲んだ。ヒューバートは二人の話に相槌を打ちながら隅でちびちびとカクテルを舐めていた。そうすると不意にアスベルに首を抱えられからかいに技をかけられる。ちょっと兄さんなにするの、声を上げればヒューバートばっかりリチャードと会っててずるい、ろれつの回らない舌ったらずで兄がいう。潮時だなとその肩を持ち上げた。リチャードの方はいくらか酔っているようだったが受け答えははっきりとしている。宿に押し付けてから送ります、ちょっと待っていてください。そう声をかけてヒューバートは兄のふらつく足を急かした。リチャードはにこにこと手を振っていた。

アスベルは思いのほか酔っ払っていてなかなか離してくれず、ぐずるのを引き剥がして身づくろいをし、なんとか宿屋を出るとそこには街灯の下外套に身を包んだリチャードが立っていた。ヒューバートは眉をひそめる。

「待っていてくださいと言ったじゃありませんか、なにかあったらどうするのです」
「たまには自分から来てみたくなったんだよ」

いつだって執務室で待ってばかりだから、歌うようにそう言って煉瓦の小さな段差からひらり、身を躍らせ一気に距離を詰めたリチャードがヒューバートの手をとってにこり笑う。手袋をしていないのにシルクのようにやわらかくしなやかな指の感触、酒のせいでなく顔が赤くなるのがわかったが夜闇に紛れて見逃してくれるようヒューバートは祈った。しかし街灯の下であった。ジーザス。

寒いから許可します、ヒューバートのゆるしを得たリチャードはそのまま手をつないで城までの道をあるいた。丈の長い外套を着ていたので傍目から見てもそう気づかれはしなかっただろう。深緑のあたたかそうなそれを見てヒューバートは尋ねる。

「それ、どうしたんですか」
「? …ああ、酒場の主人が貸してくれたんだ。今度返しに行かないといけないからヒューバート、付き合ってくれるよね」

もはや疑問でなく断定の問いかけにため息がもれた。この人は兄がいないといつもこうだ。お人形のようにきれいで誠実そうで(口を開かなければ)大人しそうな外見のくせに、自分にはまるで子どものように甘えたり駄々をこねたりしてくる。そのくせ兄や他の人間にはそれをけっして見せない。ヒューバートにはそれが気に入らない。
人気の少ない階段でふと足を止める。浮かれ足のリチャードもつられて立ち止まった。

「ヒューバート?」
「…今日、なんで僕だけ呼んだんですか?」
「え、」
「兄さんも休暇だって、知らなかったからですか?」

リチャードは口ごもる。ゆるやかな闇の中その表情はこころなし戸惑っているように見えた。しばらくの沈黙のち、アスベルには言わないでおくれとささやくように彼は言った。ヒューバートには解せない。

「休みとご存知だったのなら、兄さんを誘えばよかったではありませんか。わざわざ嘘までついて僕を呼ばなくても」

そうしたら僕だってわざわざ二人の晩酌に居合わせなくて済んだのに、喉に飲み込んだ言葉が胸に溜まってすこし重い。つないでいたリチャードの手が小さく震えた。のぞきこめば白い頬には朱がさしている。あれ、と思ったときにはぷいと背けられた。

「僕はヒューバートに会いたかったから呼んだんだよ。…それだけだよ」

見送りありがとう、一方的に言ってリチャードは去った。残されたヒューバートは手のひらに残る温度を見つめながら、自分にだけ見せるあのすこし強気な態度は、あれは彼なりの甘えだったのかもしれないと、今さら酔いの回ってガンガンと痛む頭で考えていた。

その一ヵ月後ヒューバートは、王が寂しいからだとか、兄が忙しいからそのかわりにだとか、そういう理由でなく、ただリチャードに会いたいからという理由でバロニアの土を踏んでいた。


(2011.0925)