どうぞとゆるされ入室すると、リチャードはベッドにもたれてなにか手紙を読んでいるところでした。何を読んでいるのかな、気にしながらソフィはシツレイシマス、お部屋に入るときの言葉として教えられたそれを、たどたどしく口にしました。 最初は、ソフィはそんなことを言わなくていいんだよと悲しげな顔をしていたリチャードでしたが、どうやらソフィはよく意味も知らず言っているようすに気づいてからは、あたたかな笑みでそれを迎えるようになりました。おいで、手紙を傍らに置いて手を広げるリチャードに、ソフィはおあずけを解かれた子犬のように飛びつきました。リチャードはいつだっていい匂いがして、ソフィはリチャードが大好きです。そうしてリチャードはその小さなあたまを撫でてやりながら、自らの胸に何の躊躇もなく頬をすりよせる少女に、それは嬉しそうに微笑むのでした。 視察などの目的でリチャードがラント家に滞在するたび、ソフィは来客用の上等の部屋を訪れました。リチャードがお城にもどってしまってからは、ヘイカはお忙しいのだから我慢なさいと言われ、なかなか会いに行くこともかなわなかったからです。 そのかわり、ラントにいる間だけはソフィを咎める大人はいませんでした。だから今日はめいっぱいリチャードとお話しよう、ソフィはそう決めていました。前回リチャードが来たとき、ソフィはその優しく甘やかな声を聞いているうちに気持ちがよくなって眠ってしまったので、今回はその分もお話するのだと意気込んでいたのです。 ねえリチャード、最近なにか楽しいことはあった? 無邪気に尋ねると、リチャードはええと、と話題を探してくれます。ソフィはベッドの上でちょこんと膝を抱え、リチャードを見上げました。そうしてあ、と気づきます。 「リチャード、めがね」 「え? …ああ、ちょっとね、読み物をしていたものだから」 リチャードは枕元に置いてあった白い手紙を手に取ると、ベッドサイドに備え付けられた引き出しにそれを仕舞いました。それから薄い縁の眼鏡をスッと外します。 「外しちゃうの?」 「ソフィの可愛い顔を近くで見るのに、眼鏡は必要ないからね」 「? そうなの? ねえ、リチャードも目が敵なの?」 「え?」 「ヒューバートは悪い目と闘うメガネスターブルーなんだけど、ヒーローだから、ないしょなんだよって教官が言ってた」 リチャードは目をパチパチさせ、それからあははと笑いました。 「そうか、それじゃヒューバートには頑張ってもらわないといけないね。僕は彼ほど目が悪いわけではないけれど、大事な手紙を読むときだけは眼鏡をかけるようにしているんだ」 「大事な手紙なの?」 「ん、…ああ、そうだね、大事、かな」 それはリチャードにしてはめずらしくぼんやりとした返事でした。ソフィは気になって、誰から? 何の手紙? 尋ねます。リチャードはうーんと答えを渋りました。 「そうだな…ええと、その、仕事の手紙だから、」 煮え切らない返事にソフィが首を傾げたそのときコンコンと部屋のドアがノックされました。シェリアです。夕食の献立の伺いを立てに来たのでした。 廊下に出たリチャードの背を見送って、ソフィは引き出しを振り向きました。艶やかな楡の木で出来たそれは、三段ある内一番上だけかすかに開いて、先ほどの手紙が仕舞われています。誰かの手紙を読むのはよくないことだというのはソフィも知っていました。けれど、リチャードはソフィに嘘をついたように思えてなりません。 ソフィは思い切って引き出しを開けました。白い一枚を手にとって読み、あっ、と小さく声をあげます。 「明日、ふたりで出かけよう」 それだけです。一言だけの手紙でした。けれど見慣れたやや右上がりの字はすぐにその主をソフィに教えました。たった一言であったけれどリチャードは、アスベルの誘いであったからわざわざ眼鏡をかけてそれを読んだのです。きっと確かめるように何度も読んだのでしょう、紙の端はかすかによれていました。 ソフィはとってもいけないことをした、と思いました。それと同時に、ほんのすこしアスベルがうらやましくもありました。リチャードの飴色の瞳がその字をくりかえし反芻したのを思うと、ソフィにはそれがうらやましいのです。 手紙を元通りしまい、引き出しの上のメモを一枚破ってペンをとり、一言手紙を読んでしまったことをあやまりました。じょうずには書けないけれど、丁寧な文字です。そうしてアスベルのそれと一緒に引き出しに入れ、そっと押しました。 リチャードがもどると同時にソフィは立ち上がりました。 「ソフィ?」 「シェリアのお手伝い、してくる」 「? そう?今日は久しぶりに会ったから、落ち着いて話をしたかったのだけれど、」 「…うん、リチャードにおいしいご飯、食べてもらいたいから」 ソフィはそそくさと客室を後にしました。リチャードと一緒にいるのはなんだか気まずかったのです。 そうして厨房でシェリアと出会い、今日はソフィの好きなものをと陛下に言われたのよ、ほかほかと湯気を立てるカニ玉を見せられ、ソフィはもっといけないことをした気分になりました。 ソフィがいつもの何倍も一生懸命にお手伝いをして、食卓にたくさんお皿が並ぶころ、ぞろぞろと皆が集まってきました。アスベルにケリー夫人、ちょうど仕事でやってきていたヒューバートに、それから、リチャードです。ソフィは慌ててシェリアとケリー夫人の間の席に座りました。大きな卓でリチャードとは、斜めの対面です。サラダにフォークを伸ばしながらシェリアは上機嫌でした。となりのソフィと目が合うとにっこりと微笑みます。 「今日はね、ソフィがとってもいい子でお手伝いしてくれたのよ。おかげで考えてたより二品も多く作れたわ」 「へえ、ソフィ、えらいじゃないか!」 アスベルはそう言って褒めたけれど、ソフィはうんとうなずいてポタージュをすすっただけでした。わたし、褒められるようないい子じゃないんだよ、そう思っていました。リチャードはとなりのヒューバートとなにか熱心に話していて、食事中にソフィと話すことはありませんでした。カニ玉も、他の料理もとてもおいしかったけれど、ソフィはずうっとシェリアの話を聞いているふりをして、うなずいているだけでした。 食事の片づけを終え厨房を出て、ソフィは廊下で立ち止まりました。 「リチャード、」 呼ばれた彼は顔を上げ、ゆるくもたれていた壁から身を起こします。影の暗さから灯の下に出たその顔に笑みが浮かびました。 「ソフィ、夕飯おいしかったよ、ごちそうさま」 「…うん、あの、リチャード、」 「アスベルにゆるしをもらったんだ、」 「え?」 「ソフィ、今晩は僕の部屋においで。この前約束していた本を読んであげる」 リチャードのいう本とは、前回ソフィが眠ってしまったとき、リチャードに途中まで読んでもらっていた古い童話でした。難しい言葉が多くてソフィにはよく読めないのを、ひとつひとつ丁寧にリチャードは教えてくれるのです。ソフィはリチャードを上目にうかがいました。 「…リチャード、いいの?」 「いいもなにも約束だったろう?」 さあと伸ばされた手に逡巡し、けれどけっきょくソフィは握りました。リチャードの誘いをことわるのは、ソフィにはできなかったのです。 所在なさげにベッドの上でもじもじとしていると、リチャードが書棚から童話を持ってきました。ちらりと見ると、楡の引き出しはきっちりとしまっています。リチャードは気づいたのかな、そわそわしているとリチャードがとなりに座り、分厚い本を開きました。分厚いといっても童話で、一ページずつが厚いのでそう見えるだけでした。どこまで読んだかな、一枚ずつリチャードがめくっていきます。ソフィがひかえめに、ここまで起きてたと申告すれば、リチャードはうなずき物語を紡ぎはじめます。 けれどソフィの頭にはなかなか、言葉は入ってきませんでした。落ち着かないようすで手を握ったり膝を抱えたりをくりかえしていると、リチャードが本から顔を上げました。目が合って、ソフィはどきりとします。 「ソフィ、」 「…なあに?」 「ソフィ、大丈夫だよ、怒ってない」 「!」 「ごめんね、僕が、仕事の手紙だなんて嘘をついたのがいけなかったんだ。アスベルの手紙だというのは、その、なんだか恥ずかしくて、」 あやまるリチャードに慌ててソフィは首を振ります。 「ちがうの! ごめんなさい、手紙、その、見ちゃって」 ごめん、ごめんね、ごめんよ、互いにあわあわとあやまっているうち、ふたりはなんだか互いの慌てた顔が、おかしくなってきました。見合わせて、それからくすくすと肩を震わせはじめ、そうしてそれは健やかな笑い声になりました。 笑い疲れて浮かんだ涙をこすり、リチャードはベッドサイドに置いてあった眼鏡をかけました。ソフィ、おいで、つづきを読んであげる。ソフィはおとなしくかたわらに座り、リチャードの肩にちょこんと頭をもたれて童話をのぞきこみました。すぐそばで彼が語るのを聞きながら、ソフィは時折り童話の世界を抜け出してその横顔を盗み見ました。銀の眼鏡をかけたリチャードの横顔、ランプに照らされてそのほっそりとした輪郭が鮮明に映し出され、ひかりを跳ね返す飴色の瞳がきらきらと輝いていました。わたしに読むお話も、リチャードにとっては大切なのかなあ、ソフィはそう思うと、なんだかとってもうれしい気持ちになりました。物語は輝かしい王子の活躍で幕を閉じようとしています。王子様ってほんとうに、キラキラしてるんだね、うとうとしながらソフィが言いました。おや、ソフィ、もうねむたいの? 尋ねてくるリチャードにうんとうなずくと、彼は小さく笑ってページに花の栞をはさみ、パタンと閉じました。 「おやすみソフィ、つづきはまた今度、読んであげようね」 ランプの消される気配を感じながらソフィはこっそり、ふふ、と微笑みました。今日のソフィは、「眠ってしまった」ソフィではないのです。「わざと眠った」ソフィなのです。だってそうしたら、リチャードとまた次の約束ができるではありませんか。次にリチャードが来たときにはこんなこと、あんなこともしよう、となりにもぐりこんだリチャードに頭を撫でられながら、ソフィは夢いっぱい、眠りにつきました。 次の日ソフィはアスベルとリチャードがそっとどこかに消えようとするのを見かけましたが、いつものようにどこに行くのと聞くことはせず、ただ小さく笑って、その後姿に手を振りました。その唇には最近シェリアに習ったばかりの紅が桃色に、うすく、微笑んでいました。 (2010.0610 for 眼鏡祭) |