あれ、待っててくれたの? 懲罰室から出てきた少年はそう言って悪びれず笑った。自分だけ心配して廊下で待っていたのがばかみたいにおもえて、帰る、と背を向けた。待ってよお腹ぺこぺこではやくあるけないんだ、情けない声が追いかけてくる。しかたなく歩幅は小さくしてやった。

地下の懲罰室にはあまりいい思い出がない。幼い頃から従順などとんと持ち合わせぬ性分で見回りの兵にはギラギラした目が気に入らないとよく小突かれ、態度がわるいと何度もこの部屋に放り込まれた。三つ並んだすべての部屋に入ったことのある反抗者は俺くらいなのではないかとおもう。

懲罰室という名前ではあるが実際殴る蹴るをされるわけでもなく、その罰はたいへん文科系であった。水食料なし一日放置。研究者が使い物になっても面倒だからという措置なのだろう。だからしかたなく俺は石の床でいつも寝ていた。睡眠はいつも不足していたからちょうどいい、と考えるようにしていた。いまでも、起きると身体がギシギシいうあの音はよく、記憶している。起きろと腕を蹴られたあの感触も。薄暗い地下を出るとふっと息を吐いた。アステルが食事をするついでに茶でも飲もう。久々の懲罰室の空気にあたっていくらか疲れていた。足はゆっくりと食堂を目指して廊下をゆく。

何年も院にいるけどあそこに入ったのは初めてだなあ、ほがらかにアステルが言う。そうか。つっけんどんに返事して、それからすこし迷い、けっきょく礼を言った。となりに追いついたアステルはふしぎそうに俺を見上げる。

「なんで、お礼?」
「あのあと騒ぎのせいで寮に査察が入って、犯人が見つかってな、…お前があいつを殴ってくれなかったら、懲罰室に入っていたのは俺だったかもしれない」
「…そう、みつかったの」

横目に見たが、なにを考えているのかは読めなかった。それぎり会話は途切れた。広間で院長とかち合った。アステルを見咎めた男はぐちぐちと長ったらしい注意を述べる。脇で聞き流しながらぼんやりと昨日のことを思い出していた。


となりの研究室から貴重なサンプルが持ち出されたのが発端であった。

売れば目の飛び出るような額になる貴重な原石、ふと目を離した隙になくなっていたらしい。慌てふためいた研究員が俺とアステルの研究室にやってきて問い詰めた。さっきこっちに資料をとりに来ただろう、おまえじゃないのか。荒ぶった声に人が集まった。

盗みなどはたらいていないがたしかに資料は借りに行った俺が弁明していると、外野が警備を呼べ取り押さえろと勝手なことを抜かしたところでアステルが切れた。難癖をつけてきた男を殴ったのだ。そうして俺が応急手当をしているところに上の者が来た。アステルは警備に取り押さえられつれていかれた。そのすぐあと、寮の各室に調査が入った。さいわい石は磁力に反応する性質であったから比較的簡単に見つかったらしい。俺の後にその部屋に入った他の研究員が、目がくらんで盗ったのだと自白した。処罰は現在検討中だと聞いている。

俺を疑った男は何度も頭を下げた。こころのどこかで、ハーフエルフだからという気持ちもあったのだと正直にあやまる男に、それ以上なにか言う気は起きなかった。過ぎたことだと流してそれから地下にゆき、アステルの出てくるのを半日待っていまにいたる。


説教がおわり、ともども頭を下げて広間を抜け、食堂に入った。中にいた人間はちらりちらりとこちらを見たが、あからさまに視線をよこす者もなかった。関わり合いになりたくない、というのが正直な気持ちなのだろう、冷たい茶だけくんで人気のないテーブルについた。すこししてトレイを持ったアステルもやってきて丸テーブルの向かいに座る。白いトレイにはパンとシチューとサラダ。育ち盛りに三食抜きはさすがにきつかったのだろう、普段は小食だが今日はよく食べた。

シチューにひたしてあちちとパンを頬張りながら、天気の話でもするようにアステルが言った。そういえば懲罰室で話をしたんだよ。誰とと問えば、ある警備兵の名を挙げる。聞き覚えは嫌というほどあった。小さい頃さんざん俺をあの懲罰室に放り込んだ、ひげの濃い中年の男だ。おもわず眉間に皺を寄せたのをフォークで指してアステルがわらう。(まったく行儀のわるい!)

「それで、…なんの話をしたんだ」
「うん? ああ、きみのこと。元気にしてるかって気にしてたよ、地下の担当でなかなか上には来ないからって」

よくわからなかった。なぜあいつが俺のようすなど気にするのだ。調子でもわるかったらよろこんだのか。それほど嫌われていたのか。思案する俺にアステルがのほほんと言う。

「心配していたよ、たまには顔見せてあげたら」
「はあ? なんで俺が」
「あれ、もしかして、聞いてない?」
「なにを、」
「研究室で、一番小さいのに大人と同じ時間はたらかされて、気の毒だって、あの人わざとリヒターを懲罰室に入れてたって、言ってたよ」

そんな話は聞かなかった。そもそもほとんど会話などしたことがないのだ。口を開けばからかわれていたから、自然と避けるようになった。ちょうどリヒターと同じくらいの子どもがいたから放っておけなかったんだって。食べ終えて口元をぬぐったアステルが言う。(くそ、そんな話は知らないぞ、)少年は微笑する。

「年も年だから、来月で退職するって言ってたよ、リヒター」
「…それがなんだ」
「べつに。リヒターが挨拶しに行こうと行くまいと、僕には関係もないしね」

ただ、だれかがきみのことを気にかけていたのが嬉しかっただけだよ、誰よりも俺を気にかける少年はそう言って立ち上がった。食器を返しに行ってくれたおかげで、すこしばかり目頭にぐっときたのを見られなかったのは、さいわいだった。

週末は久々に休みがとれる。たまに地下の知人に顔を見せるのもわるくない。ひょっとすると、偶然にもあの警備の男にも会うかもしれないなと思った。懲罰室で腹でも頭でもなく二の腕を蹴ったつま先の感触は、よく記憶している。


(2010.0504)