青紫に染まった指先に薬草を塗り込むと、対照的に赤い顔にはぎゅっと皺が寄った。我慢しなさいよ、アリスはそう言ってますますぎゅうと、こすりつける手に力をこめる。デクスは歯を食いしばって痛みに耐えたが、時おり堪え切れぬうめきが苦しげに漏れていた。そうしてアリスはそれを聞くたび眉根に皺をよせるのだった。

デクスが熱を出したのは夕刻のことであった。昼にひとりで歩いていたとき、魔物にやられた傷から毒が回ったらしい。

アリスが乱暴に手袋を剥がしたときにはすでに肘の方まで青みがかって、手の甲にいたってはひどい鬱血であった。

バカ! なんで言わないのよ! その頬を張れば、なんだかだるいように思ったけど、毒だと気づかなかったのだとバカがバカによるバカな答えをのらりくらりと返す。あまりにばかばかしくて、アリスはそれ以上詰ることばも失ってしまった。

さいわいにして、使われていない森の小屋がすぐそばで見つかったために急ぎそこに移した。あとすこしなんだから這いつくばってでも歩きなさいよ、アリスは強く言ったが内心は今までにない不安を覚えていた。二人旅を始めて数ヶ月、残念な頭のかわりに身体だけは丈夫なデクスがこれほど弱るところを見るのは、初めてだったのだ。這いつくばりながらあるくのは、むりだよアリスちゃん。こんなときまで律儀に返す間抜けな言葉が唯一の救いであった。


小屋に入ってすぐ、ひとつだけ備えられたベッドにぐたりとした身体をなんとか押し上げ、「ペットちゃん」たちに薬草と夕飯をとってくるように命じた。

小屋の裏には井戸があったのでアリスは小さな手で桶を引きずり運んだ。桶は少女の膝丈ほどもあり、斜めに引くたびバシャバシャと水があふれて、怪我人の待つ部屋にもどるころには水位は半分ほどに下がってしまっていた。もどると同時にペットの一体が毒消しの草を持ち帰ってきたので、ちぎってすりこんでやったところだった。

ありったけのグミを与え、呼吸がいくらか落ち着いたところでアリスは固い板張りの床に腰を下ろした。ずいぶんと重い桶を持ったせいで関節がガクガクだ。寄り添った小さな魔鳥が労るように、アリスの肩に頬を押し付ける。クークーという鳴き声に、そっとその頭を撫でてやった。

デクスの眠るあいだにアリスは台所を拝借して夕食をつくった。いつもは面倒なのでデクスに任せているが、今日はそういうわけにもいかない。(まったく使えない下僕だわ)毒づきながら、治ったら今までの二倍三倍こき使ってやるんだからと少女は思った。その前提としてデクスの回復を願っている自分には気づかない。

ベッドの横に膝をつき、卵粥と一口大に切った果物をデクスの口に運ぶ。薬草がよく効いたのか、右手はだいぶ元の肌の色に近づいていたが未だ熱は下がらず、意識ももうろうとしているようすだった。もはや、アリスちゃんがオレにあーんを…! などと、いつもであったら言いそうな軽いことばも出てこない。

苛立ちながら、アリスはその口にすったりんごをつっこんだ。(アリスちゃんがここまでしてるのに、お礼のひとつも言えないなんて、デクスのくせに!)

むせた喉を慌てて拭いてやる少女のやわらかな指は本当は、ひどく、やさしい。

デクスは遅くになってもひゅうひゅうと苦しげに呼吸をくり返した。毛布にくるまり床で眠っていたアリスはそのせいで何度も目を覚ましてはうっとおしそうに頭のタオルを替えてやった。やがてあまりの眠さに数歩離れた毛布までもどるのさえも億劫になって、デクスの眠るベッドに頭をもたれてぎゅっと目をつむった。

夢の中でいつものように自分についてくるデクスはやはりバカで、腹が立つほど元気で、目をとじた少女の頬をひとすじ流るひかりを見たのはテーブルの上、夜行性の魔鳥が一羽だけであった。


暗いうちにはわからなかったが、小屋はその狭さのわりに窓が三つもあり、朝がくるととてもまぶしかった。

入り口とベッドの対面とそれから奥の台所の小窓、差し込む朝にアリスは目を覚ます。はっとして顔を上げるとすぐそばにデクスの寝顔があった。昨夜とはちがい、吐息はいたって穏やかである。身を乗り出してよく見ると、右手の腫れもすっかり引いていた。

膝の力が抜け、床に座りこむと物音にデクスが目を覚ました。ぼんやりとしたようすであったがアリスの姿を捉えるとふわりと、その頬に微笑みが広がった。アリスはキッと目に力をとりもどし、毅然と立ち上がった。早く起きなさいよ、今朝の食事はアンタが当番なんだから、そう言って少女は小屋を出て行った。

今朝もなにも、食事はいつもオレの当番なのになあ、そんなことを考えるデクスはそれが照れ隠しであったことに気づかない。ううんと両手を伸ばすとベッドを下りると、頭の中はもうテーブルの上に並べられた材料と朝食のメニューとを行き来していた。


川辺で顔を洗ったアリスがもどると、開け放たれた窓からは香ばしい匂いがもれている。室内にもどるとますます焼きたての香りが腹をついた。中央のテーブルにかけると、途中でとってきた木の実をまどろんでいた魔鳥にやった。小回りが利くので、アリスのこの頃気に入りのペットだ。鳥は赤い粒の連なった房を飲み込むと、満足げにテーブルに頭をもたれた。

デクスが数少ない食器にせいいっぱい盛って運んでくる。鳥のやわらかな白毛を撫でながらちらりと見やると、すっかり顔色はよくなっていた。

アリスの分の平皿を置くと、椅子は一脚しかなかったからデクスはベッドの端に座った。

いただきます。白い湯気にフォークを伸ばす。こんがりとしたオムレツは内側だけとろりと半熟で、持ち上げるとぽたりとたれてやわらかい。数種のきのこは香草と焼かれ、朝一番にウルフが加えてやってきた白魚のくさみを消していた。ほどよく塩味がきき、噛むたび舌の上でとけてひどくうまかった。

気まぐれに傍らの鳥にやりながら、デクスの料理は旅を始めてから格段に上達した、と口に出さずにアリスは思う。デクスは行く先々の宿屋や、世話になった家で料理を教わっていたのだ。アリスちゃんにおいしいご飯を食べさせたいんだ、いつだったか、夜遅くレシピの書かれたノートを見返しながらデクスは笑顔で言っていた。くだらない、まあ、使えるからいいけど。そう思いながら、アリスはオムレツの最後の一口を押し込んだ。

デクスが皿を洗うのを横目に、アリスは部屋の中を物色した。ベッドの奥の食器棚、対壁の書棚、床に置かれた道具箱、どうやら木こりの小屋らしい。木材を切る道具や、植物や付近の魔物の図鑑などがあった。

盗むの? 盗みはよくないことだよアリスちゃん。はじめ、どこかの山小屋で薬箱を拝借したときデクスはそう言ったが、ちょっと借りていくだけよとアリスが返せばそうかあと大真面目にうなずいていた。図体ばっかり大きくなっていくくせに、頭だけはいつまで経っても出会ったころから成長していないのではないか、アリスは折に触れてそう思う。そうしてふと、目の前の書棚に目が行った。これだわ、少女の歳にしては大人びた笑みがその口元に浮かんだ。


すっかりデクスも回復したので、その日は北のイセリアの方角に足を向けることにした。かつてトリエットを治めた博学の翁の住む家があるらしいと耳にしたのだ。禁書にかかわる情報を求めてふたりは平野を北上した。

最初は魔物に乗って空から探していたが、どうも施設が小さいのか、なかなか見つかるようすはない。昼過ぎてからは地上に降りて探してみたけれどやはり同じである。廃屋を一軒見つけたくらいだった。

日が暮れてきたのを見てしかたなく今日は野営の準備を始めることに決め、見晴らしのいい丘の上に腰を落ち着けた。

イセリアが一望できる。村に行こうと思えば行ける距離であったが、アリスはこの時間それを望まなかった。夕暮れどき、母親にすべての信頼を委ねて手をあずけ、きゃっきゃと笑う幼子の姿はあまり好きではない。一秒先に死が訪れるかもしれないなどと、彼らは一度も考えたことがないのだ、考える必要がないから。まったく、おやさしい世界に生きている。あちこちの家屋から立ち上る幸せな夕食の煙を見下ろしながら、アリスはそう思うのだった。

見上げた空にはすでに茜が混じり、遠くに鳥たちの飛んでゆくのが見えた。視界の暗くなる前に食材を取ってくるようペットたちに言いつけ、アリスは地面に出っ張った石の上にちょこんと座る。となりのデクスは首をかしげた。

「アリスちゃん、えーと、オレも、行ってくるね?」
「アンタはいいの」
「えっ?」

いつもなら魔物たちとともに野営の準備に行くデクスだ。今日はどうかしたのかと疑問符を浮かべた。アリスは短草の生えた地面を指さしそこに座るよう命令する。すなおに腰を下ろしたデクスにぽんと一冊放り投げた。あわててそれを両手でつかんだデクスは草色の重厚な表紙をきょとんと表裏、数度返して主に問う犬のようにアリスを見上げる。アリスは靴の先でその本をさした。

「アンタ、アリスちゃんの下僕で居続けるつもりならちょっとは勉強なさい。昨日みたいに魔物の毒にも気づかないようじゃ困るのよ、今度あんなことがあったらそこらへんに置いていくんだからね」

デクスははあとうなずいて、本の表題をなぞった。『よくわかる魔物辞典〜初級編〜』ぺらぺらめくってみるとたしかにわかりやすく、イラストの図解付きで数種の魔物の特徴などが記載されていた。デクスはあまり本を読まないが、アリスがそう言うならきちんと読もうと思った。冒頭の数ページに目を通しているところでペットたちが帰ってきたので、デクスは慌てて立ち上がった。今日の夕飯も、デクスが当番だった。

食事を終えると、今日は歩き疲れたのか少女はすぐに毛布をかぶって眠ってしまった。(実際は、前日のデクスの手当てのせいで寝不足だったせいもある)

その横には気に入りの白くうつくしい魔鳥がはべり、夜目をひからせている。デクスが変な気を起こさないように、アリスが置いているのだった。

デクスは普段なら焚き火をはさんですこし距離を置いたところからそのかわいらしい寝顔をみつめてしばし至福の時にひたるのだが、今夜は与えられた図鑑に没頭していた。今まで目にしたことはあるものの、名前すら知らなかった魔物の特性を知るのは興味深いことだった。時を忘れ、デクスは読書に耽った。


それからしばらく経って、少年はふと顔を上げる。少女を振り返った。ごめんねアリスちゃん。かがり火に照らされたあどけない寝顔をみつめながらデクスはそっとあやまった。昨日の手当てのことだ。熱のせいでほとんど記憶はなかったが、少女がなにやら手当てをしてくれたような覚えがある。申し訳なかった。

デクスはときどき、じぶんが魔物だったらよかったのにと考えることがあった。そうしたら、きっともっと身体も頑丈だっただろうし、アリスに迷惑をかけることもすくなかっただろうと思うのだ。もしかしたら、ヒトとして一緒にいるよりも長い間、彼女のそばにいられたかもしれない、とも。昨日も熱に浮かされる頭で何度となく、そう考えていた。

けれどそうではなかったのだと、デクスは今になってようやく気が付いた。魔物であったならアリスに好きだと両手ひろげて言うだってできなかったし、彼女のために料理をつくることだってかなわなかった。オレ、人間でよかったんだなあ。幾千、きらめく星の下少年はそう思った。

それに、迷惑をかけるのは、デクスの努力ひとつですこしずつ減らせるのだ。自分が魔物のように強くなればいいし、本を読んで知識を増やせばいい。なんとかんたんなことだろう。そんなことにもいつまでも気づかないから、自分はきっとよっぽどバカだったんだなあ、ぼんやりとデクスは思った。そして、これからはアリスちゃんに似合う強くて賢い男になって、彼女を守っていかなくちゃ、と。

アリスの契約のためにたいていの魔物は彼女にひれ伏したが、しかしごく稀に、強い固体にはそうでないものもいる。デクスはそういうやつらから、アリスを守ってやりたいのだった。


目蓋の裏に浮かぶ星なのか、それとも夜空に浮かぶ星なのか判然せぬ頃になってようやくデクスは本をとじた。読書のために灯していた火はそっと消した。アリスがいるから魔物の心配はさしていらなかった。そうして肩口まで毛布にもぐって肺いっぱいに青草の匂いを吸い込むと、ようやく彼は気づく。

(オレ、アリスちゃんの下僕で居続けて、いいんだ)

だって彼女はそう言ったのだから。そばにいるつもりなら学習しろと。それはつまり、デクスを許容しているという意味だ。鈍いデクスにだってそれくらいのことはわかる。

えへら、みっともない笑みがデクスの顔いっぱいに広がった。どうしよう、気づいてしまった、なんだかしあわせで眠れそうにない、デクスは寝返りをくりかえす。鼻の下の伸びた顔に苛立ったように少女の傍らの魔鳥が長い尾を振ってその額をペシリと張った。ひてててっ! デクスは手で押さえて涙目で振り向く。不機嫌な鳥はまるで、嫉妬をしているように見えた。


そうして少年は間抜けなよだれ顔を少女に踏みつけられ幸福に目を覚ます。



(2010.0628 菜園無配)