ひょいと後ろから眼鏡を奪われた。ふりかえらずにアステルを呼ぶと、わっ、ちょっと度がつよくなったかな、とのんきに言ったきり返す素振りもない。見かねてチェアを回すと、うしろに立つ同僚は眼鏡をこれ見よがしにひらひらさせて高らかに宣言する。


「おつかれさま!お腹が空いたから今日の研究はこれでおしまいだよ!」
「…あと一枚でキリのいいところなんだが」
「えーやだよ僕お腹空いたし」
「…おまえついさっきおやつのホットケーキ食べてなかったか」
「糖分は大事だよねえ。さ、今日もよくはたらいたから晩ごはんにしよう!」


ね、ね! にこにこと首を傾げるアステルの、その顔には自己主張以外のなにもない。一年前のあの無主張無問題の精神はいったいどこに消えたのだろうと視界がぼやけた。眼鏡がないせいではない。
仕方なくペンを置いて立ち上がると、アステルはサッと、俺の眼鏡を背のうしろに隠した。


「アステル、いいかげん返せ」
「だってかけてないの珍しいから、もうちょっと見ていたいんだ」
「まったく、」


文句をため息にのせて吐き出して、あきらめてすこし目を細めた。(…よく、見えない…)アステルは白衣のポケットに眼鏡を入れるとうれしそうに、軽い動きでついと俺の腕を引いた。(…転んだらおまえを下敷きにするからな)




夕飯の時間にはまだすこし早く、人気のない廊下を行く。はずんで歩くアステルの背、出会った頃の奇妙な無機質を孕んでいた面影はもう、どこにもなかった。


「…変わったな」
「うん?なにが?」
「だっておまえ、昔は俺に止められていただろう」
「え? …あ、あー、」


そんなこともあったよねえ、のんびりとアステルは言う。(…おまえさては俺が食堂にひっぱって行ったときの努力を覚えていないな? なんて薄情な!)
頭痛を覚えてひたいに手をやっていると、向こうから白衣の男が歩いてくる。挨拶されてなんだ誰だと目を凝らすと、男はひっと後ずさる。返事をしたアステルが不意につかんでいた腕を離して、俺にぐいと眼鏡を押し付けた。もう満足なのかと思いながらかけ直す。鮮明のもどった視界、おびえていたのはアステルの同期の研究員だった。俺が眼鏡をかけるとほっとしたような顔をする。


「どうかしたのか」
「いや、睨まれてるのかと思ったもんで、」


じゃあお疲れと言い残して男は通りすぎて行った。目を細めたのがにらまれているように見えたのかと納得してアステルに言う。


「わかったらこれからは勝手に取るなよ」
「うん」
「?」


やけに殊勝なのに驚いた。なんともめずらしいとのぞきこむとアステルはなぜか不機嫌そうだった。眉をしかめるわけでも、唇を噛んでいるわけでもない、傍目には普段どおりに見えるだろうが、頬がすこし強張っているのは機嫌のわるいときだけだった。なんだなにが気にくわない、顎に手を添えて振り向かせたのに目は逸らされた。


「なんだ、急に」


返事はない。顎をつかんだ手の、袖をぎゅうと握られそっと下ろされた。そうしてすこしうつむいて、人前ではかけていないとだめだとアステルは言う。どういう意味だと考えているうちに、アステルはまた俺の手首を引いて歩き始めていた。

食堂に着くころようやく、ああこいつは嫉妬していたのかと気がついた。よく見ると前を行く頬はいくらか赤かった。すこし気分が良くて、今日俺の部屋で寝るかと聞くと、いいのと嬉しそうにアステルは見上げた。ぴょこぴょこ跳ねる頭をぽんと撫でてやった。








(2010.0530)
旧「観測結果」