ビショップに伸ばした指先が止まる。

しばらく呆けたような顔をして、それからふっとラタトスクは立ち上がった。そうしてくるりと背を向けるといつもそうしているように、魔界の門の前にあぐらをかいて座る。部屋にもどるようにと彼は言った。それまで熱中していた白黒の盤上はめずらしく彼の方が有利な局面であったのに、リヒターが首を傾げると、早く行けといくらか強張った声が急かすから、不思議に思いながらも駒をひとつひとつ箱にしまい、ラタトスクの間を後にした。

急変の理由を知ったのはおそらく数日後だった。時と変化の欠乏した場所に転げるほどの勢いで、外界から息せき切ってテネブラエが帰ってきた。

その頃には起きているあいだのほとんどをラタトスクの間で過ごすようになっていたリヒターの背中に、勢い余って黒犬は頭から激突する。眼鏡が飛び膝の上の本が数ページよれたのを、リヒターは抗議しようとしたがその剣幕にことばを呑んだ。身を起こしたテネブラエは追突などなかったようにスタスタと主の元へゆき、乱れた呼吸を整えながらその頭を垂れた。

そうして手短な帰還の挨拶を述べると首もとにくくりつけていた包みを器用に片手で外し、しっぽでつかんでラタトスクについと差し出す。主は臣の労をねぎらい、それをそっとその手に取った。紙をほどいて中身をあらためると、ラタトスクはいささか戸惑ったようすで足下のセンチュリオンに視線を向ける。応じるように彼は口を開いた。

「生前の遺言だったようです、あなたにと」
「…そうか、」

座っているリヒターにはその手中は見えない。なにかあったのか、のぞきこもうとするとラタトスクは無言で背を向け拒んだ。事情は気になったけれど、触れるなという意思を察してけっきょく手元の活字に視線をもどした。元来詮索する類ではなかった。ただゆっくりとページをめくる音だけが響く。


王の両手には細い銀縁の眼鏡があった。ひかりに透かしてみると、つるの部分には細かな傷がいくつもある。日常的に使用していたものなのだろう、指の腹で縁を撫ぜるとガラスの表面まで触れてしまった、慌ててつるを持ち直す。そういえば人間の世界でも縁がなかったから、直に手にするのは初めてである。

時間のあるときに街の子どもたちに物を教えていたそうですよ、ぽそりと背後で使いが言う。なんだかへんなかんじがした。だってラタトスクの記憶の中の彼は、年端もゆかぬ少年の姿のまま止まっているのだ。熱心に学び、膝にまとわりつく子どもらに読み聞かせるようすなど想像もつかない。ひげを生やし年をとり子や孫に囲まれた姿など、ラタトスクには宇宙の起源にも匹敵する謎に思えた。

ヒトと隔した時間軸を生きる精霊の身には、なんだか彼の死はいまだぼんやりとして、それでいて鋭く斬られたような痛みのようで、ふしぎな感覚だった。もう人の一生ほどの月日が経ってしまったのか、という気にもなる。片割れはどんな思いでこの世界を生きたのだろう、薄いフレームは黙ったまま、そこにかつての主人のかすかな匂いをのこしている。あの新緑の瞳が毎日このガラスをのぞいていたのかと思うとほんのすこしだけ、手の中の人工物がうらやましく思えた。

ためしにかけてみると見慣れた景色は奇妙に歪んで頭がキーンとして、そうしてとてもまぶしかった。目からすこし離し、ようやく歪みに慣れたときラタトスクはああ、と顔をしわくちゃにした。銀縁の裏側には緋色のラインが入って視界が赤らみ、そうして瞳に反射するのだ。こんなものを最期におくりつけるだなんて、片割れはなんて残酷なのだろう、たったひとつの眼鏡で彼がなにを思い日々を過ごしたのかがわかってしまう。そのときラタトスクは初めて、とても悲しいような気がしてぽろぽろと泣いた。その身のまわりを、世界を循環したマナがゆらりと揺れて包む。やわらかな新緑色のそれは、めぐりめぐって彼に帰って来た。ひどくあたたかだった。

涙の止まったころそっとリヒターが言った。明日はこの前のつづきをするぞ、盤上の位置も記憶しているのだからな。めずらしく気を遣うようなことばにラタトスクはうすく微笑する。銀縁をかけると、もう連敗の記録を伸ばす気はしなかった。

(僕の愛した世界を、きみに見せたかった)



(2010.0513 for 眼鏡祭)