リヒターはさかなです。赤いうろこ、みどり色のひとみのきれいなさかなです。

リヒターは浅瀬を泳ぐのがとっても好きです。 なぜなら浅瀬はおひさまがよく見えるからです。

リヒターはさかなだけれど、おひさまがとっても好きでした。きらきら、きらきら、水中のサンゴだって貝殻だって、あんなにうつくしいものはどこにもありません。

どうやったら触れることができるかな、きれいだな、そう思って見上げていたある日、リヒターは人間に捕まってしまいました。あんまり浅いところにいたのがいけなかったようです。

バケツに入れられリヒターは、がっしょがっしょと運ばれます。

こわくてこわくて、リヒターはバケツの中でふるふる震えていました。

けれどたどり着いた部屋で、人間はリヒターを殺そうとしたり、食べようとしたりはしませんでした。バケツをのぞきこんで、なんだかとても嬉しそうな顔をしています。

「やあ、何回見てもきれいな魚だなあ」

僕はアステル、よろしくね。そう言ってわらった男は金色の、まるで、おひさまみたいな髪をさらさらと揺らしました。


そうしてひとりと一匹の生活が始まりました。アステルはバケツの中のリヒターに、いつもとても楽しそうに話しかけます。リヒターには難しい言葉が多かったけれどだんだんと、 少しずつ、わかるようになってきました。

またアステルはリヒターの好みもよくわかるようになり、海藻系のご飯をくれるようになりました。

リヒターはアステルが大好きになりました。アステルもリヒターがだいすきです。ときおり水の中に手を入れて楽しそうに、リヒターのうろこを撫ぜます。

けれど彼らの生活は長くつづきませんでした。海に暮らすリヒターには、バケツの中は狭すぎたのです。日が経つにつれ、リヒターは目に見えて衰弱してゆきました。アステルは泣く泣く、リヒターを海にかえすことを決めました。

ぽちゃん。青いバケツから海水にもどったリヒターは、アステルをそっと見上げました。

「ごめんね、バイバイ」

アステルはそう言って、リヒターに背を向けます。

リヒターは何度も、何度も何度もアステルを呼びました。見えなくなっても、日が暮れても、お星様が出ても、気づいた仲間が止めにきても、ずっとずうっと呼びました。

そのうちリヒターを心配したエミルとラタトスク、双子の兄弟ざかなかやってきて言いました。

「リヒターさん、海の女神マーテルさまが心配しているよ、僕たちマーテルさまにリヒターさんをつれてくるよう言われたんだ」
「さっさと来い」

リヒターは力なく双子に連れていかれました。

海の女神マーテルさまというのは、この海域一帯の仲間の世話をみるうつくしい貝殻の神様のことです。このままではリヒターが力尽きてしまうと心配して、双子をよこしたのでした。

マーテルさまのおわす海底で、リヒターはがくりとうなだれました。マーテルさまは七色のひかりをゆらしながら言います。

「リヒターあなたは、ヒトになりたいのですね」
「……なれるわけがない…」
「私なら、その願いの助けになることもできますよ」
「! なんだと、本当か女神、」
「けれど、…人間になるということは、あなたの魚としての生を捨てるということです。あなたは本当にそれでよいのですか」

リヒターはすぐにでもうなずこうとしました。けれどふっと思いとどまります。生まれ育った海には、たくさんの友だちがいるのです。双子ざかなのエミル、ラタトスク、海鳥のアリスとデクス、ビーバーのハーレイとライナー、そしてアイーシャ。みんな、かけがえのないリヒターのともだちです。

その全てを切り捨てて陸に上がることは、リヒターには、できませんでした。黙り込んだリヒターを見て、マーテル様はほほえみました。

「よろしい、あなたを人間にかえてさしあげましょう。今までの生をすべて否定するようであったら、私はあなたを殺してしまわなければならなかった。友を大切に思う気持ちを、いつまでも忘れてはいけませんよ、リヒター」

そうしてやわらかなひかりがリヒターを包み込みました。みどり色の目は最後に、見送りに集まった友だちの顔をうつしてそっと、とじられました。

朝陽の昇るころ、心配になって一度もどってきた青年は打ち捨てられたひとりの男を見つけます。

赤い髪、背の高い、横たわる男。そっとひらいた瞳は、うつくしい、みどりでした。

(…おはよう、また、会えた)

そうして彼は、まっすぐに太陽に、手をのばしました。



(2010.0628 菜園無配)