リヒターは大空をゆきます。大きな羽をはばたかせ、海を抜け山を越え雲を割って、はるかな空を旅するのです。

リヒターは眼下の世界が好きでした。青々としたゆたかな緑、魚の飛び跳ねてきらきらとひかる宝石の海、そして人々の暮らす街の、生に満ちた雑多、ひとつひとつが愛おしく、うつくしい景色を眺めながら空を泳ぐ時間が、リヒターにとっては一番の幸せでした。

けれどある日突然に、その幸福は奪われてしまいます。リヒターは陸地に降りるときに失敗して、後ろ足を怪我してしまったのです。倒れこんだリヒターは人間の建物にそっと運ばれました。

待ち受けていたひとりの青年に、なすすべもなくぐったりと後ろ足を晒します。どうやら彼は医者のようでした。怪我をした足をよく観察すると、治療の方針が決まったのかひとつうなずいてリヒターの目を見つめます。

「僕はアステル、きみたちの怪我や病気を治す仕事をしているんだ。大丈夫、すぐに良くなるから安心して!」

リヒターは、ヘンな人間のところに来てしまったぞ、と思いました。そしてその考えは間違っていませんでした。

アステルはリヒターの治療をしながら、毎日必ずリヒターに話しかけました。言葉が通じるはずもないのに、こいつはもしかしてとんでもない阿呆なのではないか、リヒターはそうも思いましたが、アステルの的確な治療を受けてああ純粋な変人なのだという結論に至りました。

最初のうちこそアステルの手が触れるのをけむたく思ったリヒターでしたが、手のひらから伝わるやさしさに触れて、その気持ちはじょじょに薄れていきました。それどころか、アステルの語るやわらかな言葉をもっと聞きたいとも、思うようになりました。


丁寧な治療のおかげで、数日後にはリヒターはまた外に出られるようになりました。待ちに待った広大な空に、リヒターは飛び立ちます。小鳥たちが寄り添って鮮やかな朝の訪れを口々に喜びました。リヒターは嬉しそうに身をよじり、空を昇ってゆきます。

しかし、雲間を抜けながらリヒターはふと気づきました。リヒターはもう、以前ほど軽やかに空を飛ぶことはできなくなっていたのです。身体は前と変わりません、むしろ調子がいいくらいでした。けれどリヒターはたしかに変わってしまいました。うつくしい空を行きながら時折、アステルの穏やかな新緑の瞳が脳裏をよぎるのです。ゆさゆさと揺れるアホ毛を思い出すと、鮮やかな眼下の景色も目に入りません。リヒターは変わってしまいました。

アステルのことを思い出しているうち、リヒターはまた怪我をしてしまいました。今度は翼の怪我です。病院に戻るとアステルは驚いた顔をしましたが、よしよしとリヒターの翼を撫でて手当てをしてやりました。


そうして同じようなことが数回続いたある日、いつになく浮かない顔でアステルはリヒターを迎えました。何かあったのだろうかと見つめていると、アステルはじっと見つめ返して言いました。

「君が何度も僕のところに来てくれるのは、とっても嬉しいことなのだけど、でもね、世の中には僕の治療が完璧じゃないせいじゃないかって言う人もいるんだよねえ」

はは、困ったな、アステルは軽い口調でそう言いましたが、実際はとても困っているのだとリヒターにはわかりました。なぜなら普段のアステルはそんな弱音をリヒターに言うようなことはなかったからです。

足の治療を施されながら、周囲の人間に指差されるアステルの姿を想像すると胸が詰まりました。自分が何度も出入りしたのがいけなかったのだと思うと、切なくもなりました。

リヒターは、もうあまり空を飛びたくありません。空より緑より海よりも、愛おしいものを見つけてしまったのです。

アステルに迷惑をかけたくないのに、そばを離れることもつらく、どうしていいかリヒターにはまるでわかりません。ぐずぐずと調子の悪いふりを続けてみたものの、そろそろ飛ぶ練習をしなくてはねと外に出されてしまいました。

青空の下、ため息をついていると話しかける声がありました。見ればアステルが、いつもの白衣とはすこし違ったピシリとした服を着て立っています。

リヒター、今日は僕と一緒に飛ぼう。アステルがしっかりとした声音でそう言いました。リヒターは驚いて、それからあんまり嬉しくって、その目を輝かせました。

アステルの纏っていたのは、パイロット用の制服だったのです。今日はアステルがリヒターの背に乗って、共に大空をゆくのです。リヒターは嬉しくって、アステルの操縦どおりに飛びました。寸分の誤差もなく、示された航路をゆきます。行く先は晴れ渡り、ふたりの空の道を明るく照らしていました。

こうして技師であったアステルはその技術を買われ、リヒター機専用のパイロットになりました。リヒターは、前よりもずっとずうっと空が好きになりました。今日もたくさんの乗客を乗せ、大好きなパイロットと共に世界を飛び回っています。

歩み出したふたりが雷鳴にくじけることのありませんよう、その先に、どうか、ひかりのありますよう。

ふたりは今日も、空をゆきます。



(2010.0628 菜園無配)