現代の話です。救われない話です。ご注意ください。
(ああまた、行き違った)
パキリ、
気づかず踏みしめた枝が潔い音を立てる。見上げるとかすかな芽吹きが始まっていた。
ちょうど今ごろの、桜の芽の、すこしずつ綻びはじめたころだったかと、遠く思う。通い慣れた学び舎はあれから三年の時を経て、なんだかすこしくたびれたような気もする。
この場所、正門から大学校舎まで、堂々と続く桜並木で、ある春待ちの日、今の恋人と出会った。一目惚れというやつだった。
幸運にも付き合い始めるのにそう時間はかからなかった。俺も男、相手も男であるのに、むこうは大して抵抗なく、俺の告白にうなずいた。ただがむしゃらに幸せで、ただただうれしかった。学校でも会うのに、毎日メールして、電話料金表とにらめっこしながらくだらないこと喋って、好きで、好きで、好きだった。
三年
変われば変わるものだと、浮かぶのは苦い笑いだけ。
恋人が、俺を簡単に受け入れたのは当然といえば当然だった。あれは、来るもの拒まず云々とかいうことわざを体現したような男だった。つまり俺だけではなかった。付き合って一ヶ月後には部屋に女を連れ込んでいた。俺が泣いたら困ったような顔をして、もうしないよと言った。そしてその三週間後に繰り返した。俺は泣かなかった。恋人は曖昧にわらっていた。そしてそれから、男女かまわずエンドレスリピート。
本当に、いったいいつまで付き合うつもりなのだろうと、自分のしぶとさがたまに不思議になる。星の数ほど浮気をされても離れられないのは惚れた弱みというやつだろうか。
だとしたら本当にバカだなと、自嘲しながら正門をくぐる。纏わりつく桜の匂いがうざったかった。
(・・・たしか今日は三限でおわりだったな、ゼロス、もう家に帰ってるかな、)
三という数字は倦怠期に多いのだと、どこかで聞いた。三週間、三ヶ月、そして三年。些細な行き違いで破局しやすい時期なのだという。
だれと付き合っても長続きしない俺はいつだって倦怠期に入る前に別れていたから、自分には関係のないことだと思っていた。
それなのに、ふと気がついたら今の恋人と三年目、一般的な倦怠期と呼ばれるものが、そろそろ終わろうとしているのだから驚きだ。
自分でも覚えていないくらい、浮気をしたのに、よくもまあこんなに長いこと見捨てずにいてくれるもんだと、感動してしまう。それでも求められれば他の男だとか女だとかを抱いてしまう俺は病気なんだとおもう。けっこう、本気で。
だけどいいかげん、ちゃんと処方箋を飲む時期だろうかと、最近そんな気がしはじめている。
だって今のハニーは痛々しいくらいに俺を好きでいてくれるのだ。何度浮気しても、決して泣かないし、別れようとも言わないのだ。これ以上、悲しい顔をさせるのはわるいんじゃないかって、さすがの俺でもおもってしまう。
最初は他のやつと同じで、遊びのつもりだったのに、気がついたらちょっとずつ、好きになっていた。いつのまにか、好きだった。他人の顔を思い浮かべるだけで胸ってぎゅって痛むもんなんだってはじめて知った。
きっとハニーなら、俺の病気の特効薬になるだろう。だって考えただけで動悸が早くなって身体が熱くなってなんだかにやけてしまうのだ。
他の人間に興味がなくて、俺を好きだというのも嘘っぱちに聞こえて、来るものも去るものも気にしなかった俺だけど、今度はちがう。裏切っても裏切っても許してくれたハニーを、今度こそ信じてみたいと、思ったのだ。
だからもう病気は最後にする。つぎ、俺をゆるしてくれたらもう二度と裏切ることはしない。
(・・・・・・あの茶髪のコ、ハニーに似てる)
そうして俺は笑みを浮かべた、うすっぺらい安物の。
「ねえきみ、いま、ひま?」
やってしまった、
殺風景なホームで息を切らしながら、ガタンゴトン、去ってゆく電車の高らかな笑い声に苛立つ。ガラにもなく並木でセンチな気分になっていたら乗り遅れてしまった、あと十五分は来ないのに。
イライラしながら汗をぬぐって、青いベンチによろりともたれる。無機質の冷たさに背筋がふるえた。
(・・・さみ、)
ひゅうと撫ぜる風が火照った身体にさむい。やり場のない怒りを吐き出すようについたため息は白かった。鼻がつんとする。
完璧な行き違いだった。階段を登り切った瞬間扉がしまった。(あーもう、なんてタイミングのいい、)
走っているうちに乱れたマフラーをぐるぐると巻き直す。
向こうの線路を通過していく車両をぼんやり眺めながら、ふと、俺たちだって、同じなのだと気がついた。
俺はいつだってゼロスが好きだったが、むこうはたぶん、そうではなかった。切るのも面倒だから惰性で付き合っている、その程度なのだろう。数字にすれば百と零、それが俺とゼロスだった。
付き合って三年が、経とうとしている。俺もこんな茶番に大分我慢したものだとおもう。ここまでくるといっそ未練だろう。
だけどいつまでも縋っているわけにはいかない、このままでいたら俺はきっと駄目になるだろう、いつか耐えられなくなる日がくるだろう、その前に自分から終わりを言わなくては。
だからもう未練は最後にする。つぎ、俺を裏切ったらもう二度とゆるしてやりはしない。
電車が参ります、無機質アナウンスに俺は立ち上がった。
べつにもう、ハニー以外の人間なんてどうでもよかった。ハニーでなければ意味がなかったし、ハニーだから意味があった。
健全な男だから女の身体にはふつうに興奮したが、その中身にまでは興味がなかった。
頬に茶髪を貼り付けて、腕枕された女の子がぐだぐだとなにか喋っているのにうんうんてきとうにうなずく。女の子からは柑橘系の香水が香ったが、シーツからはほのかにハニーの匂いがする。
俺はたぶん、わくわくしていた。心のどこかできっと今度も許してくれるんだろうと確信していたから。
一瞬怒った顔をして、それからしょうがないなって眉をゆがめて、それでも好きだよと最後には言ってくれたら、そしたら俺はもう彼をハニーとは呼ばない。他の人間に使うのと同じ呼び名を使ったりなんかしない。そうして俺ははじめて呼ぶのだ、愛おしい名前を、
(・・・・ロイド、)
はやく帰って来ねえかなあと、思いながら目をつむる。
遠くで携帯が鳴ったような気がしたけど面倒で起きる気にはなれなかった。
夕飯は何がいいかとメールをしたのに返事はなかった。
父親の長い海外出張で部屋の空くのを理由に、前の夏から俺の家に恋人を住まわせて以来、食事をつくるのは俺の役目だった。
今日は特に希望がないのかなと思いながらてきとうに近所のスーパーで買い物をして、家路をすこし、急ぐ。メールがないのは、やっぱり不安だったのだ。
そうして予感は、ただの杞憂でなかった。
家に帰ればうすく開いた部屋のドア、ふたりで使う、寝室の。おそるおそる指先で押してみるとキャッと短い悲鳴がきこえた。なぜと思う前に、その理由が目に入る。ベッドの上、飛び起きて布団で身体を隠す少女。横では俺の恋人がすやすやと眠っていた。どさり、手にしていたレジ袋が落ちる。メキリと妙な音がした。卵が割れたかもしれなかった。どうでもよかった。
消えろということばは勝手に口をついていた。女の子は怒ったようになにごとか言って、そそくさと服を着て、飛び出て行った。一連の騒ぎにようやく、眠っていた男が起きる。ああ、ハニー、おかえり、なんて、なにごともなかったかのような口ぶりに苛立って、どすどすとフローリングに八つ当たりして、窓際のベッドまでゆく。どんと膝を立てるとスプリングが喚いた。くしゃくしゃの赤毛をつかんで無理矢理起こすと、いたいいたいとゼロスがうめく。
唇がふるえた。
わるい癖だ、ひょっとしたらこれで最後かも、もう浮気はしないかもなんて、まだ、期待している俺がいる。(どこまでバカなんだろう、そうやって何度も、何度も裏切られたくせに、)
もう終わりにするんだと、必死でこころを凍らせて、俺は声を絞り出した。
「・・・・・出ていけ、」
ゼロスはしばらく、言葉が呑みこめていないようだった。もう一度くりかえしてやっと、ため息混じりに立ち上がる。俺はこれ以上触れていればまた縋ってしまいそうで、赤毛から手を離した。背後では衣擦れの音がする。服を着終えたのか、ゼロスが近づいてくる気配がある。俺はかぶりを振った。
「来るな。はやく行けよ」
「・・へいへい、」
かるい返事、しょうがねえなとでも言いたげだった。ふりかえればこんなときまで整った顔がむかついて、わざと冷たい、声をつくる。
「・・・・鍵、置いてけ」
振り返ったゼロスは傷ついたような顔をしていた。(おまえが散々傷つけた、くせに)
そのまま呆然と突っ立っているから、長い茶髪の絡んだ枕を投げつけた。ぐしゃぐしゃの赤毛がさらに乱れて、くしゃりと眉が歪んだ。ぽすりと枕の落ちるまぬけな音がむなしかった。
その音でようやく気がついたようにゼロスはだらしなく履いたジーンズのポケットから鍵を取り出しててきとうに放った。そうしてふらりと踵を返す。背を見るのが嫌で、俺は視線を落とした。キィと、別れのドアに手をかけて恋人は最後に言った。
「・・・俺さあ、ロイドのこと、けっこうまじで、好きだったんだぜ」
遠ざかる足音、閉じられたドア、パタリと響く無情な別れに喉奥から声が滲んだ。
「ばかやろう、」
(・・・・・・一度も呼んだこと、なかったくせに、名前、)
そうして冷たい廊下にこぼれた涙を俺は知らない
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