カスタマーアンドウォーカー
※現代パラレルです
はらり、一房の赤毛が散る。毛先を撫ぜる指先が心地よかった。正面の鏡越しにひそかに目をやったのに、店員は聡く気づいてニカと笑った。慌てて広げた雑誌に視線を戻す。背後から明るい声が話しかけてくる。
「どうかしました?」
「いっ、え!べつ、に・・・なんでも、」
ないですと続けたのはもごもごと口の奥に消えた。店員が苦笑する気配があった。(あああなんて失態だ俺は今日もやってしまった!)
悔しさと一言でも話のできた嬉しさでうっすらにじむ涙を気にしないように、俺は必死で雑誌の活字を追っているふりをした。
この美容院に来るのはもう七度目になる。
仕事の出先からの帰り、特有のガラスの壁の向こうに彼を見つけて、衝動的に入ってしどろもどろになりながら髪を切ってもらってから、毎月一度、第三土曜日、なにかと理由をつけては通っている。
一万円弱の出費は痛くないといえば嘘になるが、このやわらかい指先を数時間独占できる代価にしては安すぎた。
家からは電車の乗り換えを経て約30分、決して近い距離ではない。近所になじみの美容院だってあったけれど、俺はどうしても彼に会いたくて、けっきょくいつも、同じ時間、夕方六時、下りの電車に乗ってしまう。(だってこの時間に行けば最後の客として彼を長く独占できる)
しまいには店に通う口実がほしくて、いまじゃ毎日髪の早く伸びるようお祈りしている始末だ。我ながら女々しいと情けなくなるがそれでも好きなんだからしかたがない。
しかしそのくせ、実際に会うと緊張してしまってなにも言えなくなるのは問題だった。(だって変なことを口走って嫌われでも、した、ら・・・!)
何度来てもろくに話もできない俺がいつも彼を当惑させてしまっているのは明らかで、その困ったような顔すら好きだなんてもう本当にどうしょもない。
今日もまたなにも話せずに終わるのだろうかと、ドライヤーをかけられながらぼんやり思う。髪を切り終えて洗い落としたあとの熱風の音は、帰りの時間を宣告されているようで悲しかった。そしてそのドライヤーさえも、パチンと音を立てて無情に切られてしまう。
ああ、と内心でため息をつく俺を、ふと、後ろからのぞきこむ影があった。ぼんやりと振り向くと彼が屈みこんでいて、俺はわっと声を上げた。大声に近くの人の視線を集めてしまって赤面する。目の前の顔が微笑した。
「おどろかせちゃってすいません、何度か呼んだんですけど・・」
「え!えええあ、す、みませ、ん・・・!あ・・なんですか・・・・・?」
「今日、よかったらちょっと付き合ってくれませんか」
「へ?・・・・・え、それ、え・・・・っええええええ!」
叫んで飛びのいてこけてガラスに頭をぶつけて、頭の周りをぐるぐるするお星さまの消えるころにようやく言葉を呑み込んだ。後頭部がじんと痛んだ。
大丈夫ですかと差し出される手に喉がひりつく。(なんだこれはどっきりかどっきりなのか俺のやましい気持ちがばれていたとでもいうのかそんなばかな!)ぎくしゃく、おそるおそる手を伸ばすと、ぐいとつかまれてひっぱり上げられる。(っ、てっ・・!てってっ、手!が!)くるりと肩から回されて、元通り、背の高いスタイリングチェアに座らされる。やわらかいクッションが俺に呆れたようにため息をついた。鏡のむこうにやはり、悲しいような困ったような顔。俺はあわててあやまった。
「あっ、あ、ごめん、あーその、びっくり、しちゃって、」
「いや、俺こそ急にすいません。迷惑でしたよね」
「そっ!ん、な、こと、ないです!ぜんぜん、ない、です!」
思わずばっと振り返ってぶんぶん首を振って否定する。大きな目が一瞬見開かれて、それからふっと、ひとなつこい笑顔になった。他の客に笑うのを遠目に見たことは何度もあったけれど、真正面から受け止めるのははじめてで、頭がくらくらした。じゃ、すぐ準備してくるんで、ちょっとだけ待っててくださいと言い置きして、彼は身軽に店の奥に引っ込んだ。内心ほっとした。あのまま見つめられていたら俺の心臓が危なかった。
(それにしても付き合えとはどういうことだ、だいたいなんで俺なんだ、アーヴィングさんならもっと他に誘う人もいるだろうに・・・・・・彼女、とか。いやもちろんいたら嫌だけど嫌だけどさァ実際あの容姿であの性格でもてないわけがねえし、うううでもいたらまじでやだなあ)
「おまたせ、」
「っ!」
肩に載せられた手に、また大声で返事しそうになるのをなんとかこらえる。これ以上叫んだり喚いたりしたらアーヴィングさんに迷惑がかかってしまう。ゆっくり顔を上げると、待ち受けていたのはいつもと同じハの字の眉だったけれど、その口元はゆるんでいた。
支払いを終えて外に出る。朝と夜の混ざった仄かな夕の温度を消し、冷え込んだ空気に鼻がつんとした。となりで赤いチェックのマフラーを巻きながら、細身の美容師がふるりと身震いする。とっさに、ジャンパーのポケットにつっこんだままだった手袋を取って差し出すと、アーヴィングさんは目をパチパチさせて、首を傾げる。
「いいんですか?」
「・・・・俺、その・・・寒いの、へいきだし、」
言った瞬間ひゅうと風が抜けて歯がカチカチした。手袋を持った手が俺を嘲笑うように打ち震えた。(ああこんなときまで決まらない俺!ジーザス!)アーヴィングさんは小さく笑って、俺の手から手袋を一枚だけとった。ありがとう、半分だけ受け取っておきます。あたたかい声音に安心した。俺は彼と同じように、片手だけ色づけして微笑んだ。
じゃ、いきましょうかと歩き出した彼に遅れないように並んでゆく。この頃の、仕事の帰り道はいつだって寒くてたまらなかったのに、彼がいるというただそれだけで、ひとつきは季節の巻き戻ったような気がした。胸の内は冬を飛び越えてもはや春だった。
彼の赴くがままについていけば、行き着いたのはとなりの通りの雑貨屋だった。
カランコロン、ベルを鳴らしながら、アースカラー基調の落ち着いた店内に足を踏み入れると、アーヴィングさんは俺を振り返った。
「知人に贈り物をとおもったんだけど、一緒に選んでくれないかなって。ワイルダーさんいつも小物までお洒落だから」
そういうことかと合点が行って、店をぐるりと見回した。生活雑貨からファッション雑貨まで、シンプルなものが並んでいる。
美容師の先輩の誕生日に贈るのだと彼は言った。駆け出しの頃、ちがう店で世話になった人だそうだ。(・・・・アーヴィングさんからのプレゼントなんて、なんて羨ましい・・・!)
羨望とすこしの嫉妬の気持ちもあったけれど、彼が自分を頼ってくれたのが純粋にうれしくて、狭い店内を何週かめぐった。
「そう、だな、28の人でしたよね。こういうマフラーとか、どうですか」
さわり心地の良いアンゴラ地のブラウン。手に持ってみると安定した重さがある。受け取ったアーヴィングさんは数度撫ぜて、うんとうなずいた。
「じゃ、これにします」
「え!あっ、の、いんですかそんな安易、で、」
「だいじょぶだいじょぶ、ワイルダーさんセンスいいから俺信じてます!」
ニカ!かがやくような笑顔で言われちゃ返す言葉もない。(そんな全面的に信用されるとなんだか心苦しいものがあるんだが・・・)
引き止める間も与えず、アーヴィングさんはさっさとレジに向かってしまった。後姿に、ふと気づく。買い物が終わってしまった。ということはアーヴィングさんとはこれでお別れなのだ、店員と客ではない、この不思議な関係の時間も、終わりなのだ。ああこんなことならもっともっと悩んでいればよかった!(やっと、ちょっと近づけた、のに・・・・!)
視線の先、会計のために彼が手袋を外すのがみえた。ああもうすぐ俺に返されるのだろうとおもうと、自分の手袋なのに妙に恨めしかった。
店員の手馴れたラッピング、愛想のいいありがとうございました、そして振り向いた彼は俺をみて笑いかけた。
このあとの行動は予想済みだった。付き合ってくれてありがとう、それじゃまた。それで終わりだ。それだけだ。俺ははたしてきちんとさよならと言えるだろうかと思っていると、ダークモスの袋を提げたアーヴィングさんがあるいてきた。
「今日はありがとうございました、たすかりました」
「いえ、あんまりたいしたことも、いえませんで」
「時間ありますか?よかったらご飯行きましょう、お礼におごります」
「はい、さような・・・・・え?」
ぱちぱち。まばたきしても目の前のわんこみたいな人懐こい笑顔は消えない。いまのは俺の妄想が引き起こした幻聴だろうかと思ったがそうでもなさそうだ。(う、っそ・・!・・・・まじ、で?)
ワイルダーさん?いやですかと顔をのぞきこまれて、ようやく我に返る。カア!頬があつい!見られるのが恥ずかしくてくるりと背をむけて、震える声で必死に返事をした。
「・・・・ラーメンたべたいです」
我ながら間抜けな答えだった。返ってきたのは笑い混じりのはいだった。
(・・・ああ、きょうもおれ、なさけない、)
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