それは所謂、




きゅ、

握り締めた紙切れを何度も何度も読み返す。住所は、一字一句正しかった。

目の前にそびえ立つビルをまじまじと見上げる。首がポキリと変な音を立てた。

「・・・・・まじかよ」

それ以外の言葉は、思いつきもしなかった。



このマンションの最上階に、あいつは住んでいるのだそうだ。住所を何度も見返したから、間違いない。

こんなとこの1番上に住んでたら下見るの怖いだろうなでもあいつがびびってる姿はあんま想像つかないななんて思いながらご立派なエントランスを抜けると、オートロックの壁に阻まれた。無言で重圧をかけてくる透明の扉、背の高いインターフォン。

とりあえずルームナンバーを押して連絡してみるけど、いつまでも非情な機械音がするだけで答える様子はなかった。

どうしたもんかと待っていると、中からちょうど住人が出てきて、隙を見て高級の警備の中に紛れ込んだ。足元の絨毯はなんだかホテルに来たみたいで、なんとなし緊張した。

エレベータに乗って番号を押して、ひとり、冷たい壁にもたれて、ふうと息を吐く。なんだかエレベータの内装まで高級で、浅い呼吸になってしまったけど。



そもそもせっかくの休みにこんなところに来ることになったのは、その家の住人、ゼロス・ワイルダーに用があるからだった。

ゼロスはこのところずっと学校を無断で欠席していて、それで、学校では割とつるんでいる(というか一方的に追いかけている)俺がゼロスの担任に言われて、様子を見てくることになったのだ。

姿を見ていないせいで俺も心配していたし、教師に住所を渡されたときは正直うれしかった。

だけどまさかこんなところに住んでいるなんて予想もしてなくて、外観を見たときは目が飛び出るほどおどろいた。おどろきすぎて自分の足を自分で踏んでしまった。じんわり痛くてうっすら涙がにじんだ。

会ったらまず慰謝料をふんだくろう。



ずいぶん長いこと待って、ようやく最上階にたどり着く。

ドアが開いて、叫びそうになった。ドアの向こうには、ドアがひとつ。つまり、ワンフロア全部、ゼロスの家ということだ。ワイルダーと書かれた家名も間違っていない。

今さらだけど、本当にいいのかと迷った。つい先日、強引に後をつけてゼロスに嫌な思いをさせてしまったばかりだった。それもあって、尋ねるのはなんとなし気が引けていたのだ。

立派な玄関でしばらく考える。やっぱり迷惑だろうか。・・・だけど、前回のような好奇心からじゃない、ただ単純に、心配だから来たのだ。ひょっとしたらゼロスは今、なにかしら大変な状態かもしれないのだ。怒られたら怒られたで引き返せばいい。

呼び鈴を押すのはたいそう緊張したけれど、覚悟を決めて、インターフォンを押してみる。待つ。返事はやはりなかった。

何度か押しても出ないから、だめもとでドアノブに手をかけた。銀でできたそれは、驚くくらい簡単に、カチャリと軽く回った。・・・・開いていた。

良心のとがめがないでもないけれど、ゼロスのことが心配だったからとりあえずこそこそと家に入ってみる。


家の中は豪華な造りとは裏腹に、相当、散らかっていた。脱ぎ散らかされた服が廊下に平気で置いてあったのにはびっくりした。

廊下を恐る恐る進んで、突き当たりのガラス扉を開けると、ひやりとした空気が肌を撫でた。身体がふるりと震える。異様な寒さだった。

リビングも、廊下同様、雑然としていた。あちこち物が出しっぱなしで、足の踏み場もままならない。

きょろきょろ見回して、ふと、動くもののあるのに気がついた。なんだろうと思ってよく見ると、それはどうやら人間だった。気がついたときには思わずひっと喉が鳴った。

窓際の大きなソファの上、毛布に呑み込まれながら、足が1本だけ見えていた。怖かったけれど、ゆっくりと近づいて、そぉっと、毛布を剥がしてみる。今度こそ本当に悲鳴が出た。

「っ・・ぅ、わ、ゼ、ロ・・ス!」

裏返った声に、そいつはうるさそうに目を開けた。この数日、探していた顔は、前に会ったときよりずっと、赤く火照っていた。

潤んだ目に荒い呼吸、だるそうな表情。そしてこの、寒い部屋。ようやく、その状況を理解する。

「・・・おまえ、風邪、引いてたのか・・」

答えの代わりにゼロスは大きなくしゃみをひとつした。



話しかけてもゼロスは喉の腫れで声も出ない状態だった。家には他にだれもいないらしく、ひょっとするとずっとひとりで寝込んでいたのかもしれなかった。とりあえず荷物を放り投げて、部屋を見回す。看病に使えるものを探すのにはなかなか時間が掛かりそうだった。

まずエアコンのリモコンを探して室温を元に戻して、水を飲ませて濡れたタオルを頭に置いて、なんとか見つけたカロリーメイトを食べさせて、奇跡的に冷えぴたと風邪薬を発見した頃には感動に涙が出そうになった。とにかく食料と日用品の少ない家だったから、それだけ探すのにも本当に苦労したのだ。最初は歩くだけでも何度もつまずいてしまって、リビングに足の踏み場も作らないといけなかったから。

薬を飲んで眠るゼロスを横に、家をある程度片付けた頃には、もう日は沈んでしまっていた。

疲れてゼロスの横たわるソファにもたれて座っていると、不意に、もそりと、動く気配があった。びっくりして身を起こすと、ゼロスが起き上がっていた。

「ゼロ、ス・・・起きても、平気か?」

ん、と、掠れた返事がある。小さくうなずいたせいで頭のタオルがはらりと落ちた。ぼんやりした目でそれをみていたけれど、やがて手を伸ばしてそれに触れて、

「・・・・おま・・が、看病・・・し・・・・か?」

ああと短く答えてから水道に走った。喉が枯れているのだろうと、急いで水を飲ませると、ゼロスはようやくすこし意識がはっきりしたようだった。

「だいじょうぶ、か?」
「・・んん、・・・たぶ、ん」
「そっか、えっと、なんかあるか?してほしいこととか、」

聞くとゼロスはしばらく考え込んで、そうしてぽつりと言った。

「なんでおまえ、ここにいんの?」
「っ、なんで、って、だってゼロス、学校ずっと、来ないから、」
「・・・・・んで、わざわざ・・家まで?」
「そうだよ。あ、迷惑って言われてもまだ帰らないからな、晩飯作って寝かしつけるまで帰らないからなっ」

叩き付けるように言ったけれど、予想していたような皮肉も嫌味も返ってこなかった。

「・・・ゼロス?」
「ひざ、」
「え?」
「ひざ、貸してよ」

何の話だとたじろいでいると、ゼロスの手が俺の髪をきゅっと引っ張った。弱弱しい動作だった。

俺がソファに座ると、ゼロスはぱたりと倒れてひざの上に頭を載せた。膝枕なんて、ずいぶん子どもみたいなことを言うんだなとおもったけど、病気で気が弱っているのかもしれなかった。毛布の上に落ちたタオルで額の汗をぬぐってやると、くすぐったそうにゼロスは身じろぎした。





眠ってしまっていたようだった。

ゼロスに起こされて目を覚ました。起きるとゼロスは新しい服に着替えていた。

「・・・ん、と・・・・・ぐあい、は?」
「おかげさまで」

ふわり、ゼロスがむこうを向いた瞬間に、いい匂いがした。風呂に入ったようだった。そういえば肩からタオルをさげていた。キッチンに行こうとするのを、髪を掴んで止めた。

「・・・・なによ」
「髪、濡れっぱなしだぞ」
「平気だって、このくらいすぐ乾くし」
「風邪引きがバカ言うんじゃねえの!」

ちゃんと乾かせと叱ると、寝起きのくせに口うるさいやつだなと忌々しそうに言われた。(さっきの俺の献身的な看病をなんだとおもってるんだ!)

それからゼロスは面倒くさそうに廊下の向こうに消えた。すこしして独特の電気の音が聞こえて、俺はちょっと機嫌を直した。




起きたゼロスのおかげでなんとか食べもののある場所がわかって、レトルトのおかゆにちょっと具を加えて、なんとかふたり分のごく簡素な夕ご飯を作った。

ゼロスはめずらしく何も文句言わず、それを平らげた。そうして食べ終えて一息ついて、ぽつりと、ありがとな、と言った。

素直に礼を言われたのは初めてのことで、おどろくと同時に、とても、とてもうれしかった。自分のしたことがゼロスのためになったということが、うれしかった。

うれしさを噛み締めたくて、俺が黙っていると、ゼロスはつぶやいた。

「・・・メシ、人が作ったの食べるのは、久しぶりだったんだ」
「え?」
「ひとりで住み始めてからずっとインスタントか買ったものだったから」

そういえば親はどうしたんだろうと疑問が浮かんだけど、聞くのは失礼かなと思った。こんな豪邸に、ひとり暮らし。親もいなくて風邪を引いても看病する人もいない。たぶん、なにか複雑な理由があるんだと思った。そしてそれは聞いてはいけないことだと直感的に感じた。聞いたらゼロスを困らせてしまうとわかっていたから、なにも、言わなかった。

代わりに、ひとこと、どういたしましてとだけ答える。明日からはちゃんと学校行くわとゼロスは小さく微笑んだ。久しぶりに見た、笑顔だった。











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