しばらく帰れないと、言おうとおもったのに。

ゼロスはさっさと女の子のところに行ってしまって、伝えることはできなかった。隠しもせずに視線を送っても、気づく気配はなかった。どころか、小柄な女の子の細い腕がゼロスに絡みつく。知らぬうちに噛み締めていた唇から、鉄の味が染みた。

所有物のようにゼロスを独占する少女に殺意にも似た怒りがこみ上げる。夜に連れてくる女たちも忌々しかったけれど、どうせその女たちは一夜かぎりの付き合いだと思えばまだ感情はなんとかできた。学校という場で、ゼロスの私生活に踏み込んでくる方がもっと腹立たしかった。

潜めた声で噂する女子の声が不機嫌に拍車をかける。(・・・メールなんてしなければよかった)

結局チャイムの鳴るまで女の子はゼロスを離さず、俺は話しかける機会を奪われてしまった。

現代文の時間はふて寝タイムとして有効活用しよう。きっと今日はゼロスが集中攻撃されるだろうから、席の遠い俺は当てられないにちがいない。

苛立ちに頭が重い。



思っていたより疲れていたらしかった。(昨日はふらふらするまで飲んで吐いて寝たから、しかたがなかったかもしれない)

見かねたクラスメイトに起こされたときにはもう放課後で、ゼロスは先に帰ってしまったようだ。ひとこと声をかけてくれればいいのにと思いながら、ザカザカ教科書をカバンにつっこんで教室を出る。

と、偶然に廊下の窓の外、見慣れた色をみつける。むかいの東校舎にいるそいつを呼ぼうと窓ガラスに伸ばした手が止まる。

視線の先、駆けよる少女、黒髪の。背の高い少女は、お昼の彼女とはまたちがった。ため息をついてそれでもやはり気になって遠くのふたりを見つめる。少女がなにか紙袋を差し出した。受け取ったゼロスが中身を取り出して口に運ぶのが見えた、胸に押しかかる重圧。窓枠をにぎりしめて、ようすをうかがった。ゼロスがにこりと笑うのが見えた、膝の力が抜けた。(俺の料理、あんな顔で食べてくれたこと、ない)気の抜けているうちに、少女とゼロスは寄り添っていた。これ以上みているのはもう耐えられなくて、なんとか目をそらして、転びそうに倒れそうになりながら急いで廊下をゆく。


知っていた、はずだった。

無類の女好きだということも、自分はただの友だちだということも、―――絶対に自分は、友人の壁を越えられないことも。

それでも、それでもまだ好きなんて、バカか、おれは、(ああバカだ)

涙が止まらないなんて、それでも男か、おれは、(男だ、あいつの好きな女の子には決してなれない)

これ以上の痛みはちっぽけな心には容量オーバーで、バカな男はただ、がむしゃらに走った。


自宅に帰ろうと思ったけれど、教科書類の私物がないのは学生的に困る。しかたなく同居人のマンションまでもどって、合鍵を回した。

大きめのリュックに必要最低限の荷物を詰めこんで、忘れ物はないかとリビングに一度もどる。すると、テーブルの上にはほとんど手つかずの朝食が悲しげにたたずんでいた。浮かぶのはゼロスの顔、女の子の作ったらしいなにかを、嬉しそうに食べていた。カッと熱くなる目頭をなんとか押さえて、震える足でフローリングをあるく。けれど残された皿の冷たさに触れるとやはりじわりとこみ上げるものがあって、俺は頬の熱さをなるべく気にしないようにしながら、朝食を皿ごと可燃物のゴミ箱に捨てた。

合鍵はポストに置いて、もうマンションは振り返らなかった。