しつれーします!笑顔で乗り込めば返事のかわり、いつも通りのため息が返ってくるのに満足する。窓際の机で書き物をしている教師はふりかえろうともしない。
後ろ手にドアを閉めてザカザカと、狭いくせに迷路みたいな化学準備室をあるく。平積みの本の山を倒さない技術ならかんぺきだ。両腕を上げながら最後の谷を抜ければ、挨拶代わりの苦情を言われた。勝手に入ってくるなといつも言っているだろう、というのはもうこの人の口癖みたいなものだと思って流してる。実際、本気で嫌がってるようすもないからそうなんだろう。


本の群れが終わればぽっかりと、窓側だけは足の踏み場が確保されている。(本人に言わせりゃ、本の山も"キソクニノットッテセイゼント"並べられているらしいが絶対にうそだとおもう)一歩踏み込むとオフィスチェアを回してようやく、クラトスはふりむいた。(俺が来るたびうしろから散々抱きついたらやっと振り返ってくれるようになった。たいした進歩だ)


「忙しい。帰りなさい」
「今日の授業の質問があるんだよ、あんた教師だろ、教えるのが仕事じゃんか」
「おまえは私の受け持ちのクラスではないのだから、担当の者に聞けばよかろう」
「いやーそれが化学じゃなくて英語でさあ」
「帰れ」


眼鏡の奥の目は冷たいけどいつものことだから気にしない。一脚だけ壁によりかかったパイプイスを勝手に持ってきて広げる。荷物は床に置いて、大きな研究机の隅に目をやった。年代ものの白いポット。


「あ。ココア切れてたっけ?」
「・・・昨日買っておいた」
「おう、サンキュ」


べつにおまえのためではないとクラトスは言うけど、当の本人がいつもコーヒーしか飲まないんじゃ説得力はなかった。(わざわざ俺のために買い物してくれたのかって、思うとちょっと、うれしい)新しいココアの袋を開けながら鼻歌を歌えばちらりとにらまれた。やめろとは言わないからそのままにした。
砂糖も加えずマグを左手のそばに置けばクラトスはだまってうなずいた。前は手に取りやすいように右手側に置いていたけど一度そのせいで書類の束が無残な姿になったから、暗黙の了解でこっちに置いている。


ココアをかき混ぜながら指定席に座ると、机の下の小さなストーブからいくらかもれる熱が足に当たってあったかい。窓の大きく切り取られたこの部屋では唯一の防寒対策、肌に染みる。クラトスには内緒だが、俺がココアを入れているあいだに足を伸ばしてストーブを傾けてくれているのは知っていた。気づいたのは去年の冬だったけど、言えば照れるから気づかないふりをしてやっているのだ。(たまにストーブが遠すぎて、俺にばれないように必死で身体を傾けているのはすごく可愛い)


舌で触れればまだ熱い。すこし冷めるのを待ちながら、鞄から教科書を取り出してひざに置く。
しばらくして、クラトスは書類から顔を上げた。こっちをちらりと一瞥して眉をひそめる。


「昨日もライティングがわからないと言っていなかったか」
「今日の授業もわかんなかったんだからしかたねえじゃん」
「困ったやつだな」


長い指が伸びて俺の教科書をすくう。コーヒーを一口飲んでから、どこのページだと化学の教師は聞いた。いっつも帰れって言うくせに、けっきょくは他の教科まで教えてくれるから俺はこの部屋に通うのをやめられないのだ。


「・・この文はここに否定があるから倒置が起きて、語順は・・・・」


クラトスの手ですらすらとキレイな字を書きこんでいくシャーペンは、なんだか俺の物じゃないみたいだ。普段より喜んでいるように見えて、俺はすこしだけ嫉妬した。(ただのペンなのに)
じっと見ていると不意に、わかったかと聞かれて焦る。気まずさに苦笑いすると、クラトスはひとつため息をついてまた最初から説明してくれた。(今度は、ちゃんと聞かねえと・・・!がんばれ俺の脳細胞・・!)


なんとか小難しいルールを理解して、礼を言って教科書とペンを受け取る。うっすらと残った温度になんだか恥ずかしくなって、あわただしく鞄にしまった。と、ポケットに無造作につっこんであったポッキーに気がついて思い出す。


「そうだ、クラトスさあ、」
「先生と呼びなさいと何度も言ったはずだが」
「クラトス、今年はちゃんと受け取れよな」
「・・・・なんの話だ」
「チョコレート、ほら、今週末、バレンタインだろ」


返事は無言だった。またかという表情を浮かべるから、俺は言ってやる。


「去年も一昨年ももらってくれなかったけど、俺まだ諦めてねえから!」
「・・・勝手にしろ、受け取らないものは受け取らないからな」
「うん、勝手にする!」


頑固で譲らない教師に、今年こそは絶対食べさせてやるんだと意気込んで笑う。クラトスはあきれたような顔をしていた。