取り落としそうになった、鞄をぎゅうと握る。いやな予感がした。背をつたう寒気は廊下の窓から混じるそれじゃないだろう。
扉のむこうでは話し声がする。人がふたり以上いるのだ。片方の声は(たぶん低すぎて)聞こえない、もうひとりは明らかに女子だった。爪が、手のひらに食い込む感触があった。
ふたつ前の冬、クラトスに出会った。
担当する学年がちがったから廊下で見かけたことがあるていどだった、無関係の俺にクラトスが最初に言ったことばは、「おまえは馬鹿か?」である。ひとりきりの教室に突然の声、そしてその中身におどろいて返事のできなかった俺の手元、机に放られたプリントに手を伸ばして、気がつくとクラトスは前の席のイスに座っていた。サラサラ、軽快に走る、訂正の二重線。俺が長時間かけて神の啓示という名の勘を頼りに書いた数式は、当然だが見事にぜんぶまちがっていた。だけどそんな風に端からバカにされたんじゃさすがに頭にきて、文句を投げつけようとしたときクラトスは言った。
「世話の焼けるやつだな」
どういう意味だと、考えているうちにその長い指が公式を書き込んでいく。出会いがしらにバカにしたくせに、教え方はおどろくほど丁寧だった。ひとつわからなければその数歩前までもどって教えてくれた。わからないと言うことを怒ったりしなかった。プリント一枚理解するのに夕方までかかったのに、なにもいわなかった。ヘンな教師だとおもった。
そしてそれからの冬季補習中、毎日クラトスは俺の教室に来た。それまでひとりきりでいかに暇をつぶすか考えるのに躍起になっていた時間は、いつのまにか数学の授業になっていた。補習の終わりを寂しく思っている自分がいるのに気づいたときはすごくびっくりしたのを覚えてる。(だって数学なんて足し算と引き算ができればいいだろって思ってた俺が、関数って意外といいやつじゃん、なんて、思う日がくるなんて!)
けれどクラトスは、わからないことがあればいつでも来なさいと、最後の補習の日俺に言った。俺はただただうれしくて、次の日数学の教科書を鞄に押し込んで学校に行った。職員室でなぜか化学準備室に行けと言われ、ようやく化学教師だと知ったときにはもうすでにあいつに惚れていたんじゃないかとおもう。だって単純な高校生だ、自分の担当教科でもないのにあんなに熱心に教えられれば落ちる。
そうしてクラトスに惚れこんだ俺は、今ではすっかり化学準備室の居候になっていた。
だから、いやだった。その部屋に俺じゃないだれかがいるのが、いやだった。今すぐ扉をあけて怒鳴り込んでしまいたかった。そんなことをすればクラトスが嫌がるという意識だけが、すんでのところで暴走に歯止めをかけていた。
帰ろうかと踵を一度返して、それでもやはり中のようすは気になって、またふりむいて、そろりと、横開きのドアに手をかける。隙間、一センチ。
――みなきゃよかった、
見慣れた本の山のむこうには、知らない女子と大好きな教師。派手な頭の女の子は、クラトスがなにか喋るたびきゃらきゃらと笑っていた。見ていられなくなった。上履きを踏みしめて走った。廊下に点々と水がこぼれていても、理科教室の近くなら気にしないだろうなんて、そんなことをぼんやり考えていた。
(・・・むこうはただの教師だって、わかってたはずなのに)
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