昨日、来なかった。(なんで、)
はじめて、来なかった。(どうして、)
待っていたのに、来なかった。(・・・・アーヴィング!)



こみ上げる焦燥、喉が押しつぶされそうな。カチカチと刻む無神経な時計が精神を追い詰めていく。(だれだこんな不愉快な時計をえらんだ奴は!・・・・私か!)拳を握ると汗が滲んで気持ちが悪かった。


定時、三時を過ぎても聞こえない足音、たたかれないドア。やはり先日廊下で詰問したのがよくなかったのかと、鬱々とした後悔が頭をかき混ぜる。生徒に走って逃げられたのは初めてである。(ああしかもよりにもよって、アーヴィン、グ・・・!)どうしたものかと頭悩ませているあいだにも時間は刻一刻と過ぎ去ってゆく。ひょっとして今日も来ないかもしれない、今にも下駄箱で外履きをはこうとしているかもしれないと、思い当たった瞬間足が勝手に動いた。
(こうなったら実力行使だ、教師の特権をっ、行使してしまえ、)
教師には対生徒用最終兵器、『校内放送』という武器があるのだ、そうだとにかく職員室に行かなくては。


本に気遣いながらも早足で狭い部屋を、横断してそうして古びたドアのへこみに指をかけたとき、ガラリと、開けてもいないのに勢いよくドアが横に引かれた。逆方向に引っ張られた手先が悲鳴を上げる。痛みに熱い指をもう片方の手で必死に押さえてしゃがみこんだ。声ならぬ声が喉に響く。急に開けるなと言おうとして、見上げた先にいたのは頭の中を占拠していた顔だったから言葉が止まってしまった。



「え、クラト、ス・・?」
「あっ、あ、あ・・・アーヴィング、」
「・・・その、手、大丈夫か?」
「て?ああ・・平気だ、それより、昨日、」



昨日と口に出した途端、ひくっと、目の前の膝がふるえた。逃げられると反射的に感じて、ズボンの裾をぐいとつかんだ。本当に走り出そうとしていたらしくアーヴィングはいくらか上体をくずして、恨めしそうに私をみた。とがめる視線も気にせずに、固い布を握り締めたまま、問うた。



「どうして、昨日、来なかった」
「っ!お、俺だって、用事がある日くらい、あ、ある!」
「本当に、そうなのか(このまえ追い詰めたのを、怒っているんじゃ、ないのか)」



聞き直せば、ぐらりと瞳は迷った。見つめているとアーヴィングはふうと、息を吐いた。そうしてしゃがみこんで、ぐっと、膝に顔を伏せた。



「・・・引かない?」
「ひく、とは?」
「俺のこと、ヤになんない?」
「約束する」



ぎゅっと両腕で膝を抱いて、消えそうな声でアーヴィングは言った。



「嫉妬した」
「・・・・・え?」
「クラトス、が、っ・・知らない、女子、準備室に・・・入れてたから」



なんのことだと思った。しばらく思考をめぐらしてそういえば昨日そんなことがあったとぼんやり思い返す。無理に押しかけてきた女子、三時過ぎでアーヴィングが来るから追い返そうとしたのに居座られ、けっきょく五分ほど化学式の解説をするはめになった。あの五分をのぞき見たのだろう。ああ、つまり、(・・・・怒っていたわけでは、なかったのだ、よかった)くたりと腕の力が抜ける。肩を落としつよく掴んでいた裾を離すとアーヴィングが不安げにのぞきこんだ。



「く、クラトス?やっぱり、ひいた?」
「・・・いや、(それより、ほっとしている方が、大きいのだ)」
「俺だって、嫌だなって思ったんだよ、えと、事後嫌悪って、やつ?その、喋ってるの見ただけで嫉妬するなんて、かっこわりいし、みっともねえし・・」



黙っているとひとりで勝手にすすめていくから、ああいけないとその手を引いた。立ち上がって身体ごと引っ張って、ドアを閉めて、部屋に連れ込む。安堵にぼうっとする頭でなんとか、言葉をつくる。



「言っておくが、私が生徒を自分からこの部屋に入れたのは、これが初めてだ」
「え、」
「他の生徒には、こんなことは、しない」
「えっ、と・・・?」
「それから、事後嫌悪ではなく自己嫌悪だ、もうすこし国語を勉強しなさい」



いいなわかったなと確かめると、わけもわからずアーヴィングはこくこくとうなずいた。それからしばらく経ってようやくハッキリとした目が、パチパチとまばたく。
不意に私を見上げて、そしてうれしそうにうれしそうに笑いながらうなずくものだから思わず、手を、伸ばしそうになった。背中の後ろに、なんとか回して片手で片手を諌めて、その衝動をようやっと食い止める。
生徒に手を出すわけにはいかない。(・・・あと、一ヶ月)
教師と生徒でいるあいだだけはと、心に決めている。その後のことには自信が持てないが、せめてそれまではと、握り締めた手で邪も押し潰す。人の好みは本人に聞くようにと、言い含めるのも忘れない。



―――あと、一ヶ月



(・・・まったく、長いものだ、な)