ふりむけば、眉根にぎゅっと皺をよせていた。
面相のカテゴライズの検索結果から導くに、たぶん、怒っている。(どうしてだろう)ぼんやりと不思議に思っていると同僚は自分の席から立ち上がり、背中合わせの僕の席までやって来た。そうして僕と話していた同期の研究員に向かい合うと、きっぱりと言う。


「その程度の雑事をこいつに押し付けられては迷惑だ、断る」


言われた方はどぎまぎと、ハーフエルフが口を挟むな云々とつぶやいていたけれど、背の高い彼に睨まれすごすごと引き下がり、研究室を出て行った。
二人きり残され沈黙の戻った部屋で、チェアを回して彼を見上げる。僕を見下ろす深緑の瞳はしずかで、表情は読み取れなかった。他人に対する、感情の欠片みたいないびつなものが、久々に顔を見せる。


どうして、と、僕は聞いた。彼はまた顔をしかめ、(怒っているのかどうかは、よく、わからない)ぼそりと言った。


「こうでもしないとお前は、どんなことでも引き受けるだろう」
「だって簡単な仕事ばかりだよ、断っていやな顔をされる方が面倒じゃないか」
「簡単な仕事と言っても、押し付けられる量がこう多くてはお前の研究の邪魔になるだろうが」
「それくらい、慣れているからへいきだよ」


僕がそう答えると、リヒターは無言で背を向けて自分の研究机にもどった。乱暴に座り込まれたオフィスチェアがギィと音を立てる。やはり怒っているらしいことは、常にない乱雑な動作から見てとれた。僕が怒らせてしまったらしい。しばらく首を傾げていたけれど、単に気の短い性分なのかもしれないと思って自分のレポートに目を戻した。




その日からリヒターは、僕に回される雑用のすべてを引き受けるようになった。実験の予算表を作成し、簡単な薬草を採取し、そして夜は星の観測をする。自分の研究を怠ることもなく、僕にココアを入れるのも忘れず、助手は膨大な量の仕事を黙ってつづけた。


どうしてそんなことをするのだろう。くる日もくる日もはたらき続ける同僚をみて、僕は不思議におもった。初めて他人に明確な興味を持った。それで、理由を聞こうとしたとき、彼は倒れた。
突然だった。二人の研究机のあいだ、スローモーションでぐらりと、その長身は崩れ落ちたのだ。
しずかな研究室にはどさりと、重い音が何度か反響して消える。静寂を乱した小さな突風に僕の机のプリントが数枚、はらはらと舞った。


しばし考える。そして身を屈め、リノリウムに散らばったプリントを拾って元の場所にもどした。
それからこっちはどうしたらいいだろう。わからない。放っておいたら怒られるだろうか。面倒だ。そういえばこのまえ僕が倒れたときは彼の手で医務室に運ばれていた。倒れた人は医務室に連れていくのが正解なのだろう、たぶん。
そこまで思案し、彼の両脇に腕をまわしたところではたと気づいた。重い。持てない。


理論と実際とは、なかなか仲がよろしくないものである。





けっきょく廊下を通りすがった同僚の一人に手伝ってもらい、リヒターを医務室のベッドに運んだ。過労だと医者はいう。よくあることだと思い、ベッドのそばを離れようと見舞い用のイスから立ち上がったけれどふと、振り返る。僕の仕事は、彼が引き受けていた。そう思うと妙に、去りがたい。僕の身体は僕の思考を無視し、勝手にベッドの横のパイプイスに座り込んだ。研究室にもどる気は、起きない。
白いカーテンで仕切られて蛍光灯はうすく遮断されているけれど、時折彼はまぶしそうに眉間に皺をよせた。スッと、手を伸ばして目蓋に影を落とすとその皺は消えた。いつにない行動の原理は、自分にもよくわからない。


しばらくそうしていると、シャッと、四方を仕切るカーテンの一枚、リヒターの足の向けられた方が、すこし、開けられる。医者が顔をのぞかせていた。こちらのようすを見ると、中年の男は目を剥いた。落ち着きを取り戻すように眼鏡を押し上げてから、医者はいう。


「アステル、おまえ研究室にもどらないのか?」


それは僕の疑問だった。答えは見つからない。黙っていると医者は、肩をすくめてすいとカーテンをしめた。
本当に、どうしてもどらないのだろう。伸ばす手を代えながら、天才と持て囃された頭、思考。


リヒター・アーベント。
十六歳、男、ハーフエルフ。今年度知能テスト、研究所内八位。備考欄には、無口、性格に難有りと記載。一月前に見せられた彼のデータである。助手を選べといわれて一度目を通したから覚えている。淡々とした白いプリントの右上には、要注意人物用の黄色い付箋が貼られていた。
性格も見た目も種族も、べつにどうだってよかった。それなりに有用な頭脳と、備考欄の無口が決め手だった。というか実際のところ、書類の束の一番上だったからという理由が大きかった。(だって一枚一枚目を通すのは面倒だった)


ただ自分の足を引っ張らなければ誰でもよくて、興味なんてまるでなかったのに、どうもこのところの奇妙な行動には好奇心をそそられている。そうだ、好奇心にちがいない。謎の行動の理由がわからないから、僕はこんなところで貴重な研究の時間を潰しているのだ。厄介な助手である。起きたらきちんと聞かなければならない。
(・・・・それにしても、気持ちよさそうに寝てるなあ)




いつの間にか眠ってしまったらしかった。肩に触れるなにかに、ふと目を覚ます。まばたきの向こうでは、奇妙な助手が僕をのぞきこんでいた。深緑の瞳が揺らぐ。


「すまない、起こしたか」
「・・・う、ん?」
「風邪をひくと思ってな、」


なんのことだろうと思いながら、前のめりに身を沈めていた白いシーツから身体を起こす。変な体勢で寝ていたせいで関節がパキポキといい、それからぱさりと、肩からなにか滑り落ちる。パイプイスに受け止められたそれは、白衣だった。どうやらリヒターのものらしい。起きた早々、わからない。


「これ、なんで、僕に?」
「そんな薄着で寝ていたら、風邪をひくだろうが」


そう言ったリヒターは薄いシャツ一枚である。ついでにいうと、さっき過労で倒れたばかりである。(僕に貸したら自分が風邪をひくんじゃないの?)ますます、わからない。


「どうして、他人にこんなこと、するの? 僕の雑用を引き受けたり、白衣をかけたり、・・・わからないよ、どうして?」


首を傾げると、リヒターは面倒くさそうにため息をついた。それからじっと僕を睨んでいう。


「お前が、心配ばかりさせるのがわるいんだ」
「心配?」
「そうだ」


耳慣れない単語、脳内辞書をひく。心配、何か起きはしないかと気にかけること、だったとおもう、たしか。


「なら、どうしてリヒターは、僕を気にかけるの?」
「・・・・目の前で倒れている人間がいたらふつう、心配して助けるものだ。無用の仕事を押し付けられ、睡眠を削られているのが原因なら、見過ごすわけにはいかんだろう」


当然のようにリヒターはいう。リヒターにしてみれば、それは数学の答えのように決まりきったことらしいが、僕にはよくわからない。順を追って、ゆっくり、考える。リヒターは僕の雑務を引き受けた。それは、僕を思ってのこと、らしい。目の前の人間を心配するのは、当たり前のこと、らしい。


そこまで思考が及んで、ようやく僕は、はたと気がついた。僕はさっき、研究室にもどらなかった。彼の行動理由が知りたくて、ここに残った。だけど、わざわざ彼の目の上に手をかざす必要はなかったはずだ。黙って彼の起きるのを待てば、否、彼を起こしてすぐに問うてもよかったはずだ。起こさなかった理由は、彼の目に影をつくった理由は、彼のいうところの、心配というやつなのだろう、おそらく。つまり僕は、無意識に彼を気遣っていたのだ。辞書で読んだときは言葉の意味がいまいちぴんとこなかったけれど、実際はこんなに簡単な、自然なことだったのかと僕はおどろいた。そしてようやくリヒターの言わんとすることに理解が及んだ。


長い数式を解いたような、妙な達成感と爽快感がある。数日にわたる疑問に答えが与えられ、僕は満足した。満足すると、途端にまた眠気がやってくる。そういえばここのところあまり寝ていなかった。イスに引っかかっている白衣を手に取り羽織る。実験用の薬品とココアと石鹸の混ざったような匂いがしたけれど、すこし袖の長い白衣はなんだか着心地がよかった。上半身を傾けて白いシーツにふたたび顔をうずめる。今日の実験のレポートは、明日書けばいい。


ちょっと待ておい寝るな動けないだろう! 遠くからの抗議の声は聞こえなかったふりをした。ただただ安眠が僕を呼んでいた。




* * *




「――いやだ」


ぽかんと、植物図鑑を広げた男は口を開けた。まさか僕本人に断られるとは微塵も思っていなかったのだろう、人の頼みごとには一度も首を振ったことのない僕だ。学院時代から試験の山掛けやレポートの写しに僕を頼っていた同級の男は、しばらく間の抜けた顔をしていた。それから忌々しそうに、ハーフエルフに感化されやがってと、言おうとしたけれど語尾は不明瞭だった。


僕のうしろの机で実験をしていたリヒターがふりかえり、手にしていた試験管をその顔に向けたからだ。その長い腕は座る僕を通り越し、試験管は男の鼻先に突きつけられる。透明の試験管の中で揺れ、とぷりと一滴床に落ちた緑色のしずくはジュワ、と微かな煙を立ててリノリウムを一点焦がした。ひ、と男は身を引いて、図鑑を抱えて悔しそうに出て行った。精一杯虚勢を張っているようだったが、腰はしっかり抜けていた。


他人との間に面倒を起こすのがわずらわしくて人のいいように装っていたけれど、一度断ってしまうとなんだか気が抜けた。やりたくないことはいやだといえばいい。ただそれだけのはなしだ。相手に疎まれようと大した問題じゃない。人に雑用を押し付けるような人間、厭われてこまるような相手ではないのだ。なんだかすっきりした。


お前、これでよかったのかと、床を拭きながらリヒターが聞く。いいんだよと僕はうなずいた。リヒターはなにも言わなかったけれど、その日僕のココアの横には、小さなチョコレートが控えめについてきた。おいしかった。


僕の仕事を受けるリヒターが心配でことわったのだとは、なんだか、いいにくい。