ぷつり、切れた。
研究机に向かう小さい背中、ぐいと引っ張ってチェアごと寄せて、腰をつかんで持ち上げる。困惑した声など耳にも入らない。あいかわらず重さなど感じさせない細身を横抱きにして、本の散らばる床を通り抜けた。夕飯時もとうに過ぎ、人の少ない廊下を歩いているとアステルは不満げにぶつくさ言ったが、無視した。
食堂に運んで席に放って、逃げないように目を光らせながら、奥から残ったサラダとパスタをもらってきてドンとテーブルに置く。アステルはいささか不機嫌そうに見上げた。


「・・・面倒だからいいって、言ったじゃない」
「面倒とかそういう問題じゃない、食え」


間髪入れず返事をすると、アステルはちらりと皿を一瞥してぷいと目を背ける。


「・・・・きゅうり、あんまり好きじゃない」
「好き嫌い禁止」
「・・・・・あのね、僕いちおう君の上司なんだけど、」
「それがどうした、ほら冷めるぞとっとと食え」


じゃないと俺が食わせるぞと付け加え、フォークを手に取ったのが効いたのか、アステルは渋々食事に手を付け始めた。監視をするように向かいのイスに腰かける。少年はゆっくりとトマトを口にはこんだ。


食べるのが面倒くさいと少年は言った。だから俺は切れた。
食べ盛り、育ち盛りのくせに、きっといつもそんなことばかり言って研究に没頭していたからこんなに細いのだろう。腕なんて強くつかめば折れてしまいそうだ、さっき抱き上げたときだって人間の重さじゃなかった。


まったく本当に、こいつは俺がきちんと世話をしてやらなければ。ゆっくり動くフォークを目で追いながら思う。元来、俺はここまで人に介入する性質ではないのだが、この二つ年下の少年をみているとついつい母親のように世話を焼いてしまう。俺の上司(一応)は、自分というものに無頓着すぎるのだ。こまったものだった。


半分ほど片付けたところで、アステルはカチャリと食器を置いた。


「・・なんだ、もう食べないのか」
「もともと食が細い方なんだよ」


ごちそうさまでした、手を合わせて、もう研究にもどってもいいのとアステルが聞く。即答、


「駄目だ、いいかげん今日は寝ろ。朝からずっと机に向かいっぱなしだっただろう」
「・・・でも、まだ証明が終わってないんだよ、」
「よく寝て頭を休ませるのも研究の一環と思え」
「っぜんぶ終わったらちゃんと寝るもん!」
「おまえの『寝る』は、一般的には疲労困憊で『倒れる』と言うんだ!」


もういい押し問答は無駄だと立ち上がってまた軽い身体を持ち上げる。(食べてもちっとも変わらない軽さ! 嘆かわしい!)ちょうど食堂に入ってきたリリーナに悪いが後を任せて、じたばたする天才問題児を護送した。


アステルの部屋は、研究所二階の角部屋である。日当たりや広さを考えればこの年端も行かない少年に破格の厚遇だと思うが、ほとんどの時間を研究室で過ごすアステルはそんなこと気にも留めたことがないのだろう。研究室にもどせとくりかえす、弱々しい抵抗を少々くすぐったく思いながらそのドアを開ける。大きな窓からの月明かりをたよりに右手、大きめのシングルに背中をひょいと投げる。ぼふり、羽毛布団がやわらかくへこんだ。それでもまだ身を起こしてもどろうとするから、その肩をトンと押してベッドに沈めた。不満げな瞳。


「・・・研究室のドアは鍵をかけておくから、もどっても無駄だぞ。わかったら早く寝ろ」


返事はなかったが、もう起き上がるようすもないからどうやら諦めたようだった。室内は適温に保たれていたが一応上掛けをかけて、部屋を出た。




パタリ、閉めたドアにずるずると、もたれこむ。・・・疲れた。
けれど地下を出てアステルの補佐について一ヶ月半。拒否、不快という感情を訴えるようになっただけでも大した進歩だとおもう。出会った当初あの少年はそれすら知らなかった。ただ周りの人間に親切に、てきとうにうなずいておけば面倒が少ないからと、人の意見に拒絶を示すことがなかったのだ。


そして頭脳を生かして今まで生きてきたから、研究を続けないといけないというどこか強迫観念めいたものが念頭にあるらしく、滅多なことでは研究室を出ようとしない。リリーナなど、他の研究員が止めることもあるがたいてい生返事で、飲まず食わず倒れるまでつづけることだってざらにあった。俺が補佐役につく前のことなど、考えただけで胃に穴が空きそうである。


見かねて何度も強制的に食堂に連れて行った結果、最近ようやく朝食を食べる習慣を持つようになってくれたことは本当に奇跡である。
好き嫌いを言ったりして、すこしずつ自分の主張が増えてきたのも、いいことなのだと思う。表情も以前の人形のような微笑ひとつだけではなくなって、いくらか、怒ったり拗ねたりするようになった。だから、いつか、


(―――いつか、笑っているのが見られたらいい、)


祈りにも似たきもちで、つよく、つよく。





(知らない間に寝入っていた。朝起きたアステルに叱られた。朝陽が眩しい)




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旧「希望観測」
0403:加筆修正