宛がわれた広い研究室、たまに恨めしくなる。
たまにというのはたいてい、掃除をしているときや、探し物をしているときだ。
膨大な資料、実験道具、謎の走り書きの残されたメモ書きの山と海、二人で使うには広い研究室の手前半分には、空き巣もおののく僕の帝国が築かれている。


部屋の奥、窓側のリヒターのスペースと比べると、天国と地獄ということばが思い浮かぶ。よく整頓され物の少ない窓側と、混沌としたカオスの廊下側。(近頃は部屋に入るたびリヒターが顔をしかめるようになった)本来なら研究室に入ってすぐ、部屋の中央にはリヒターのそれと同じサイズの大きな横長の机がひとつあるはずなのだが、物に埋もれてどこからどこまでが机なのかさえわからない。左奥の壁に沿ってずらりと並べられた棚は明確な領域の境が発生している。


昔から、掃除はからきし苦手なのだ。なにかひらめいたと思ったら壁だろうが床だろうが走り書きをしてしまうし、使うと思った文献は開きっぱなしにしてしまい、そしてその上に書類が置かれ、図鑑が置かれ、そしてまた別の文献が載せられ、気がつくと足の踏み場がなくなっているのだ。今の広い部屋に移されたのは、すこしでも部屋の片付けの楽になるようにとの、上の取り計らいだった。(けっきょく広さが変わっても部屋の汚さが変わることはなかったけど)


春の終わり、大きな学会を終えてすぐの、ひさびさに落ち着いた休みだが、こんなときでもないと片付けないと知っているからしかたなくゴミ袋に物を放り込む。次の研究テーマは一瞬にして部屋を片付ける機械の開発にしようかと半ば本気で考えた。そんなことを言ったら僕の助手はどんな顔をするだろうとおもった。


(助手――そうだ、リヒターは?)


さっきまで片づけを手伝っていたのに、ちょっと書類を持っていくと言ったまま帰って来ない。片付けるのにも飽きてきて、床から立ち上がると積み上げた資料の山がガサリと崩れた。ため息。気分転換だ、さがしにいこう。






一階の廊下には姿はなかった。人間ばかりの他の研究室に行くはずもないし、行く場所は限られている。玄関の広間と食堂を回って、それから最後に地下への階段を下りたところで、ようやく僕は彼を見つけた。ハーフエルフとヒトを隔てる長い階段の真ん中、リヒターはこちらに背を向けだれかと話をしていた。会話が弾んでいるせいか、上段の僕には気づくようすがない。リヒターと話す下段のだれかも、大柄なリヒターに阻まれてこっちは見えないようだ。


リヒターと(声音から察するに、)女性は、打ち解けたようすだった。熱心にエクスフィアの実用化の話をしているのだが、僕の専攻は精霊や魔物の研究を主としたものだから、内容はよくわからなかった。


なんだか、喉のあたりがざわざわする。なにか、なにかをいいたい。けれどなにをいえばいいのか、わからない。(僕はこんなに頭がわるかっただろうか)リヒター、気づいてよ、なんども呼んだ。けれど声は掠れて彼に届くその前に消え、大きな背中は振り返らない。笑っているわけでもないのに、親密だとわかる気軽な二人の会話、やたら、耳にひびく。止めたくて、やめさせたくて、階段、一歩踏み出して近づき、僕は呼んだ。


「リヒター!」


渾身の声、ようやく、リヒターはふりかえる。僕をみつけておどろいていた。掃除の途中だよ、はやくもどってきてよと、つづけていうと、リヒターは話をしていた女性に一言ことわってから、階段を上がってきた。僕と同じ目線までくると、


「すまない、久々に会ったものでな」


とあやまった。あやまられても、なんだか喉のあたりにはもやもやとしたものが絡み付いていて、きもちわるい。すぐそばにもどってきたリヒターを、僕はにらんだ。


「僕は用事があるから、片付け、あとはリヒターがやっておいて。明日までにはキレイにしといてね」
「? おまえ、今日はひまだと言っていなかったか? さすがにあの部屋を一人では、」
「っ上司命令だよ!」


たたきつけて、返事も聞かずに地下を出た。
廊下を早足で抜けて、広間の階段を上って、二階奥、自分の部屋のベッドに飛び込んで、もやもやを抱えたまま、ぎゅっと目を瞑った。


脳内理解量をはるかに超えている。
春の異動でリヒターが来てからというもの、それまで凍り付いていた感情のようなものが溶けながれて、僕をこまらせてばかりいる。名前も知らないとりどりの気持ち、扱いもわからず僕をとまどわせる。


他の人間とちがい、なにを言ってもリヒターは僕に関わるのを諦めないから、ますます困惑する。どう接していいか、わからない。どこまで我儘が許されるだろうとおもって、つい、駄々をこねてしまう。僕は、どうしたらいい? ・・・わからない。(リヒターが、わるいんだ、)
考えるのはもう、疲れた。せっかくの休みだ、日も高いけれど休んでしまおう。




* * *




ここしばらくは学会の準備に忙しく、思いのほか疲労が溜まっていたらしかった。起きたのは真夜中をまわった頃だった。
めずらしくぐっすり寝てしまったせいでちっとも眠気は残っておらず、どうしたものかと考える。さすがにおなかは空いていたがもう食堂はやっていないだろう。時間があるなら、本でも読もうか。研究室にはなにかしらあるはずだ。なんにせよ自室にいるのは落ち着かなくて、僕はそっと部屋を出た。


電気も消され、窓もない暗い廊下を壁伝いにゆく。(リヒターはどうしたのかな)
用心しながら階段を降りた。(怒った、かな、)
大きな剥製の横を通りすぎ、その奥の廊下に向かう。(もう、いないよね)
一番手前、右手のドアを引いた。(なに、読もうかな、)


そうして、突然の眩しさに目を歪める。なんどかまばたきして、ようやく、室内の蛍光灯がつけっぱなしなのに気がついた。それから、手前と奥、ふたつの机のあいだにしゃがみこんだ人影にも。


「え・・・・リヒ、ター?」
「なんだ、寝てたのか」
「・・・・なんで、」
「なんでって・・・気づいてないのか? 寝癖、ひどいぞ」


そっちの『なんで』じゃない、どうしてここにいるのと聞きたかったのだ。けれどたずねる前に答えはわかってしまった。昼間に出て行ったときよりずっと片付いた僕の机まわり、それでもまだ、半分は試験管だのわら半紙だのが転がっている。リヒターは言われたとおりにずっと、掃除をしていたのだ。(僕の身勝手で、全部押し付けたのに)


かける言葉がみつからなかった。人との必要以上の付き合いを出来得るかぎり避けてきた結果だ。どうしようもなく、僕はドアを開けたまま立ち尽くしていた。
すると手にしていた荷物を机に置いて、リヒターがやってくる。ゆっくりとした動作で歩き、手を伸ばしたくらいの距離をおいて、立ち止まる。どこか戸惑ったようすだった。


「その、よく、寝られたか?」
「・・・うん」
「そうか」


それきり会話は止まった。僕は他人との話の続け方なんてろくろくわからないから、リヒターが止まってしまえば自然、話題は途絶えてしまう。


なにかをいわなければならないのはわかっていた。ただ伝え方がわからなかった。もどかしい、もやもやする。喉のあたりが声を忘れ錆びついたように、言葉をとじこめていた。
黙っているとリヒターは言った。


「今日は、すまなかったな」


えっ、と首をかしげると、出ていったきり話し込んでしまってわるかったと、リヒターはあやまる。僕は見上げた。


「どうしてリヒターがあやまるの? ぼく、僕こそ、無茶な量、たのんだのに」
「・・・・そうだな、無茶だったな。でも、おまえ泣きそうな顔してたからな」
「え、」
「この掃除を明日までに一人で済ませろというのはたしかに理不尽だが、おまえが泣きそうだったから、なにかあったんだろうと思った」
「僕、が?」
「ああ」


連日の徹夜で疲れていたのか、気分はわるくないかと、ぼそぼそリヒターは聞く。ふいと首を横にふると、リヒターはぎこちなく口元を持ち上げた。笑って見せようとしているらしかった。僕はぐっと両手を握って、唇をひらいた。


「あやまるのは、僕の方だ」
「? ・・・・アステル?」
「ごめん、なさい、」


言葉にして、そうだ僕は彼にあやまりたかったのだと、やっと気がついた。ひとこと言ってしまえば、とめどなく、ごめん、ごめんねと、勝手に口からこぼれていた。


リヒター、リヒター・アーベント、初めて僕が興味を持った。他人なのに僕を心配した。我儘を言っても見限らなかった。僕にとって初めての、明確な形を持った個人。だから、とられるのがいやだった。幼子が母の両手を欲するように、僕だけの興味対象でいて欲しかった。


それがかなわないから理不尽な仕事を押し付けたのだ。それでもまだ僕を見放さないリヒターに、律儀にいわれたとおり片付けをつづけるリヒターに、僕はわるいことをしてしまったとようやくわかった。そうして、わるいことをしたら、あやまらなければいけないのだ。


ごめん、ごめんといい続けていると、なんだかきゅうと心臓のあたりが痛くなった。声がふるえる、喉がふるえる、指先がふるえる。頬が、熱い。リヒターが一歩踏み出して、僕の目元を指の腹でぬぐった。その感触で初めて、僕は僕の目からあふれる液体に気がついた。狼狽した。泣くという行為、そのメカニズムを知らないわけではなかったけれど、僕は泣いたことがなかったから、とまどった。混乱は、涙とともに勢いを増す。(リヒターに、わるいことをしてしまった!)ぽろぽろ、言葉、こぼれる。


「ごめんなさい、ごめんね、リヒター、僕、ただのわがままなんだ、リヒターが他の人と話してるのが、気に入らなかっただけなんだ、わがままなんだ、」
「・・・そう、か」
「ごめんなさい、」
「・・・・・アステル、いい加減くどいぞ」
「! ごめ、」
「あやまるな、必要以上にあやまると豚になるんだぞ」


僕はびっくりした。そんな話ははじめて聞いた。豚になったらどうしよう、研究をつづけるにはペンが持てないかもしれない、豚足用のペンをつくればいいだろうか、でも豚になってしまったらそれもつくれないなと、ぐるぐる、めぐる混乱。リヒターはちょっとヘンな顔をして、昔話でじいさんが言ってた、と付け加えた。冗談だったのだがと、小さな声でいう。(冗談ってあんなに無表情でいうものだったのか、知らなかった)でも豚にはならないのかとちょっとほっとした。あ。そうかリヒターは僕を落ち着かせたかったのか。(いつだってわかりにくいから、僕にはなかなか伝わらない)


気がつくと涙は止まっていた。リヒターは目じりをやわらげて、僕を怒った。助手だからといってこんな仕事をおしつけるなと叱った。声音は穏やかだった。それからぽつりと、俺はお前の助手なのだから、すこしくらいわがままを言ってもいいのだと、つぶやいた。僕はたぶん、安心した。(こころやすらかとは、こういうことなのか)


安心した途端、おなかがぐうと鳴いた。しょうがないやつだなとリヒターは言った。薬品棚にしまってあった飴をくれた。りんご味はきらいだったけど、ちょっとだけ好きになった。あとすこし、のこった掃除が終わったらココアをいれてやるとリヒターがいう。僕は腕まくりをして机をにらんだ。(リヒターのココアは、おいしい)