剣を振るえば、新緑の空気が斬れる。
久方ぶりの稽古は鈍った身体に新鮮で、四肢にのこる気だるさすら心地よかった。緑生い茂る中庭を吹き抜ける風を腹いっぱいに吸い込むと、じっとり汗ばんだ身に涼が満たされ気持ちいい。


閉鎖的で無機質な研究所の中にこれほど解放的な場所があるのを知ったのは、地下を出てすこし経ったころだ。そう広くはない、ちょうどアステルの研究室と同じくらいの広さの中庭。研究院と、隣接する寮のあいだ、渡り廊下にはさまれて、四方の隅に植わるメルネアの木を筆頭に数々の植物が共生している。やわらかい陽光から照り付ける日差しに代わろうとしているいま、最後の春を惜しむ花々と夏を待望する新緑が鮮やかで、うつくしかった。中央には小さいものだが噴水が置かれ、ふとした瞬間に虹を描いてみせる。チャポチャポと水の滴る音が控えめに響き、飛沫はあたりのマナを穏やかにしていた。


最初こそ直に差す光に戸惑ったものの、何度か訪れるうちに吹き抜けの太陽と風が気に入って、時折こうして剣の稽古をしたり、なにも考えず休みに来たりしている。せかせかと勉学に励む研究員がこの場所を訪れることはあまりない。やってくる人間に眉をひそめられることもなく、居心地がよかった。




抜き身を鞘に戻すとカチンと満足げに剣が鳴く。数ヶ月ぶりに刀身を研ぎ、鞘の汚れを落としてやった愛刀は変わらず扱いやすく、手に馴染んだ。


以前はハーフエルフの反逆を懸念され、実地調査に赴くとき以外は手に出来なかった剣を、こうして休日に振るうことができるのはアステルのおかげである。研究所始まって以来の天才とも呼ばれるアステルが、何を思ったか俺を研究助手に指名した――まあどうせ、助手候補リストの一番上に俺の名前があったとかそういうことなんだろうと、勝手に推測しているが――ために、俺は他のハーフエルフよりもいくらか自由の範囲を広げられている。近年、地下に押し込められていた異端の種族はすこしずつ地上へ出る機会を与えられるようになったが、その中でも俺は特に優遇されていた。


剣を持つことが認められたことを初めに、狭いながらも自室の所持や、時間制限付きではあるが街への買出しが許可されたことは、数年前までの抑圧された地下生活を思えば目を見張るほどの進歩である。日頃迷惑ばかりかけられている(一応)上司だが、すこしくらいは感謝してやらなければなるまい。
ところで、


「のぞき見とはいい趣味だな」


コツリ、靴音。渡り廊下の屋根を支える太い柱の陰、ぴょこりと、見慣れた寝癖がのぞく。


「気づいてたの?」
「・・・当たり前だ」


ため息まじりに答えると、件の上司は白衣をはためかせてすこしばかり早足に芝生をあるいて、噴水のそばにたたずむ俺のところまでやって来た。そうして身を屈め、しげしげと俺の腰元をのぞきこむ。


「剣がめずらしいのか?」
「うん。あんまり、見たことない」


頭を揺らし、アステルはさまざまな角度から長剣を観察する。人一倍好奇心のつよい少年だから、未知のそれが気になるのだろう。なんだか弟ができたような気分で、聞いてやる。


「持ってみるか?」
「え! いいの?」


漆黒の瞳がきらり、光る。これほど嬉しそうな表情を見るのは稀なことだった。新しい玩具をよろこぶ子どものようでなんだかおかしかった。俺はアステルを数歩下がらせ、スッと剣を引き抜いた。怪我などさせないようにゆっくりと刀身をひるがえし、柄を差し出すと、アステルは興味津々といったようすで右手を伸ばした。ぎゅ、ぎゅっと、何度か握り直して俺を見上げる。うなずいて手を離した瞬間、ガシン! と音立てて切っ先は俺のつま先すれすれ、地面にのめりこんだ。口元が引き攣る。アステルは不思議そうに首を傾げた。


「あれ・・・ん? あれ?」


左手も添えて持ち上げようとしたが、数センチ浮いたそれはすぐに落ち、俺の立っていた場所に沈んでいた。とっさに飛びのいていなかったら足の指が切り裂かれていたにちがいない! この馬鹿め!


「おっま、え! さっきから俺を攻撃しようとしてるのか!」
「リヒター、おかしいんだよこの剣、持ち上がらないんだ」
「お前の筋力がないせいだ馬鹿が!」
「ええっ! そうだったのか!」


目を丸くひらいておどろく天然にいらいらしながら、ちょっと待ってろと言い放つ。靴の土をおざなりに払って、石の廊下に足を乗せた。




もどってきた俺の手に握られたものを見て、アステルはまた目をきらきらとさせた。持たせていた片手剣を自分の鞘におさめ、手にしていた短い木刀をわたしてやる。小さい頃に練習に使い、しばらく地下倉庫で眠っていた古物だが、それなりに状態はよかった。
真剣よりはずっと軽く、今度はアステルの細腕でも持ち上げられた。見よう見まね、先ほどの俺の稽古を真似るようにアステルはぶんぶんと木刀を振り回す。最初はへっぴり腰だったが、恐れがないせいか太刀筋に迷いがなく、筋はそうわるくないと見える。俺が剣を抜き、刃を当てないようにしながら軽く遊んでやると、一生懸命にえい、えいと向かってくる。


しばらくつづけているとアステルがかくりと膝をよろめかせて転びかけたので、抱きとめて噴水の縁に座らせた。木刀を放って白衣を脱ぎ捨て、肩で息をしながら、アステルはわらった。声を上げわらった。いつもの無機質な笑顔ではなかった。初めてかいま見た少年らしい活発な笑顔に俺は束の間おどろいていたが、つられてわらった。腹の底からわらうのは久々だった。ふくらはぎはすっかり筋肉痛だったがどうでもよかった。


靴を脱ぎ裸足で噴水と戯れるアステルをふりかえる。アステル、呼ぶと少年は俺をみた。漆黒の瞳には虹がかかっている。地面に座ったまま噴水の縁に肘をつき、俺は幼い弟に言った。


「また、時間が合ったら付き合ってやる」
「! ほんと?」
「ああ、約束だ」


俺がそういうと、アステルはぱちぱちと大きな目をまたたかせた。それから口の中で何度か、やくそく、やくそく、と繰り返す。どうかしたのかと聞けば、アステルは言った。


「約束って僕、はじめてなんだ」


すこしばかり面食らったが、この天才少年と過ごした三月をふりかえればきわめて当然のことのような気もした。小さい頃から大人に囲まれ生きてきたアステルには、同年代の友だちもいなかったのだろう。俺は身を乗り出した。


「アステル、約束しよう。いくらでも約束すればいい、俺はかならず守る」


アステルは不思議そうな顔をした。それからうーんと腕を組み首をひねって、じゃあなにを約束するか考えておくよと微笑んだ。それから不意に、俺の二の腕をつかみ引っ張った。一瞬の沈黙、のち、飛沫。バシャリという音はやけに耳の近くで聞こえた。(つめたい!)顔を頭を手を覆う、水にもがいて、膝に力をこめた。なんとか抜け出して気管に入った水をげほごほ吐き出しながら見上げると、いたずらに成功した少年はしてやったりとわらう。腹いせに水をかけてやったら器用に逃げられた。ああくそ、こんなときばかりすばしっこい!(っやっぱりお前など俺の弟ではない!)