ひとつ、手折ると甘やかに香る。
群生するホロの花は小高い丘一面に薄桃色を咲かせ、風のそよぐたび可憐に揺れている。足で踏まないように立ち上がると、妙なところに右足をついたせいでよろめいた。あわや尻餅をつきそうになったが、うしろから肩を支えられまぬがれる。ふりかえってお礼をいうと、もっと気をつけろと叱られた。曖昧に微笑む。コツンと頭をたたかれた。


時間もちょうどいいからここで一度お昼にしようと提案した。天気もよく、視界を区切るものなにひとつない青空の下、うなずいた助手といっしょに芝に座り込んでお弁当を広げる。お弁当といってもおにぎりがふたつとスモモがひとつだけだけれど、長距離あるいた後の空腹にはなによりおいしいご馳走だ。街を遠く離れ空気も澄んで、ときおり眼下の森で鳥のさえずるだけのしずけさが満ち、穏やかな初夏の候だった。


この丘を囲む一帯の森に、ほど近い村の住民から相談があったのが事の発端だった。春の終わりから夏の初めにかけて毎年、ウルフが村の畑を荒らし農作物に手酷い被害を受けているのだという。襲撃は年々勢いを増し、今年はついに村の若者が襲われたために村でお金を集めて研究院に調査を依頼し、僕たちが派遣されてきたというわけだ。
聞き込みの結果、ウルフの一団は一年の内この季節しかやってくることはなく、それ以外は姿を見ることもほとんどないということがわかった。そうして助手のリヒターが季節特有の植物に目をつけ、検証用サンプルの採取のために僕たちはこの森にやってきたのだ。
事前に採取リストに上げた名前は、ホロに線を引いたことですべて消えた。持ち運び用のパックに二、三保管して立ち上がり、お尻の土を払う。水筒を荷にしまったリヒターも立ち上がる。


「歩けるか? 休憩はもういいのか」
「うん、だいじょうぶだよ。行こうか」


図書室の図鑑で見るのとはちがう、見晴らしの良い丘から広がる森を、その向こうの野を空を、最後に目におさめて背を向ける。村の被害を早急に抑えるためにも、はやく研究院に帰ってデータをとらなければならないのだ。




丘をゆるやかにくだり、木々のひしめく森に足を踏み入れる。背の高いリヒターが前を歩き、見通しの悪い森の、道もない道を草掻き分けゆく。青葉の隙間から時折差しこむ日差しに目を細めながら、薄暗い中をすすむと、行きには通らなかった、やや開けた緑野に出た。見回して、一点に目を留める。草むらの中央、そこだけ桃色に染まっている。
ホロだ。こんなところに生えているのはめずらしい、本来ならもうすこし高地を好む花だ。近寄ってよく見ようと腰を折ると、焦った声に名前を呼ばれた。


「っアステル!」


ふりむいたのと、視界が赤く染まったのは同時だった。顔に降りかかる生温かさと生臭さ、耳をつんざくような断末魔が耳を殴る。ドォ、ン、土埃立てて目の前に、無残な狼の死骸が崩れ落ちた。おどろきに膝を崩し尻餅をつく。血塗れた目元をぬぐって見上げると、ヒュ、ヒュッと鮮血を切り、死骸の向こうのリヒターは剣と斧を構えていた。
ハッと見回せば、息も潜めずウルフの群れが、僕たち二人を遠巻きに囲んでいる。遭遇したことがないくらいの大きな群れだ。おそらく今の一匹は囮だったのだろう。他の獣は距離を置いて、ようすをうかがっている。身動きすらままならない緊張がうなじを震わせる。目だけ合わせてリヒターとうなずきあい、僕はサッと立ち上がった。


それが合図だった。一斉に四方八方から襲い来る魔物を目の端で確認しながら両手を死骸に伸ばし、そこから素早くマナを集めて放出する。ウルフを形成していたマナは銀に輝くチャクラムに変わり、僕の手の示すままに風を舞った。回転しながら飛翔する刃は獣の首を裂き胴を抉り足を砕く。チャクラムを交わし襲い掛かってきた一匹はリヒターの衝撃波に切り裂かれた。その身体からまた武器を練成し、リヒターを狙う目に矢を放つ。


背を預け援護し合いながら攻撃を打ち込み、リヒターがなぎ払い僕が練成する。そうしてしばらく戦っていたが後から後からきりがない。強烈な親玉でもいるのかと思ったがそんなようすもなく、体力もじょじょに落ちてきていた。


「リヒター、ねえリヒター! なにかが変だ、ウルフはこんなに、」
「好戦的ではないはずだ、なっ!」


斧でなぎ倒しながらリヒターがあいづちを打つ。ウルフの凶暴化にはなにか原因があるはずだ、雷の槍を落としながら必死に考えていると、余計な思考をしたためによろけて転んでしまった。


「っ大丈夫か!」


反射的に僕を振り向いたリヒターを影が襲った。二の腕に噛み付かれ、リヒターが顔をしかめる。立ち上がろうとして地面についた僕の手はやわらかいものをつかんだ。こんなときまで可憐に咲くホロの花びら、甘い匂いが香った。僕はハッと気がつき、とっさにその花を術で燃やした。


その後は本当に一瞬だった。遠吠えを残しながら蜘蛛の子を蹴散らすように群れは散り散りに去り、あとには積み重なった死骸と僕たち二人だけが残された。ぜえはあ、肩で息をしながらふらふらと立ち上がる。かすり傷は負ったが大した怪我はない。僕よりも腕を噛まれたリヒターの方が重傷のはずだった。しゃがみこんだ助手に手を差し出すと、負傷していないほうの手でリヒターはつかんだ。


二人とも疲弊していた。アイテムも残っていなければ、回復術をつかう気力もない。とにかくどこか安全な場所をさがして手当てをしようと、リヒターを支えながら森をすこしばかりあるく。川辺に出た。砂利の上にリヒターを座らせて上着を剥ぐ。ひどい有様だ。血にまみれ深く抉られている。細い穏やかな川から両手ですくって、水をかけるとリヒターは眉をひそめた。傷周りを清めてガーゼを当て、包帯を取り出す。


「・・・災害時用の救助訓練で習ったきりだから、うまく巻けるかわからないや」
「かまわん、傷を塞げればそれでいい」
「うん、」


最初は手間取ったが、ゆっくりと巻くとなんとか固定はできた。巻き終えるとリヒターはほっと息を吐いた。やはり腕には痛みがのこるらしく、すこし動かしてみては険しい顔をしていたが、やがて顔を上げる。


「どうやら、ホロの花が原因だったようだな」
「え? ああ、ウルフの凶暴化か、・・・おそらくね、花粉かなにかに発奮作用があるんだろう」
「もどったら、あの丘の処遇を決めないといけないな」
「そうだね、成分を調べて書類を上に通しておこう」


うなずくと、リヒターは片手で眼鏡にこびりついた血を落としながら、ぼそりとなにか言った。小さすぎて、川のせせらぎにかき消されてしまう。


「? いま、なんて言ったの?」
「っ、聞いていろ、馬鹿が!」
「そんなこといわれても、リヒターの声が小さかったんだもの」
「・・・・・・三度は言わん、よく聞いておけよ」
「うん」


なんだろうと、耳をすます。鼓膜に響いたのはリヒターらしからぬ言葉で、僕はびっくりした。だってお礼を言うリヒターなんて、なんか、ヘンだ。たぶん顔にもあらわれていたんだろう、不機嫌そうに、川の水をかけられた。赤い透明な水を手の甲でぬぐって、なにが? と、きいた。リヒターは目を合わせずにいう。


「・・・ウルフに囲まれたとき、俺一人ならおそらく花に気づかず助からなかっただろう。・・・それと、包帯も」
「あ。えーと・・・・それじゃ、僕からも、ありがとう」


言い返すと、リヒターはぷいっとそっぽをむいた。(えーと、照れている)


数ヶ月の観察を通して、最近になってようやく、照れているときには相手を見ようとしない彼の癖に気づいた。ぶっきらぼうな仕草もすこしずつ慣れてきて、短い「そうか」の声音ひとつで、怒っているのか、やや嬉しいのか、悲しいのか、大まかな感情はわかるようになってきた。
そんなこと、たぶん、以前ならどうでもよかった。本来なら上からの要請がないかぎり、調査には一人で行っていた僕だ。
ずっと、他人との共同調査なんて面倒で、避けていた。足を引っ張られるのは迷惑だったし、余計な気を遣うのもわずらわしかった。


だけど、案外、わるくない。お弁当をだれかと食べるのも、人に気遣われるのも、背を預け合って戦うのも、わるく、ない。・・・リヒターといっしょにいるのは、わるくない。だから、


「つぎの調査も、ついて来させてあげても、いい、・・・・・かもしれない」


リヒターの真似をして、わざと川面を向いてそう言ってみる。返ってきた「そうか」は、たぶん、うれしい類の、それだった。