下卑た声、投げつけられた。


(ハーフエルフが堂々と同じ道をあるきやがって、)


去り際に吐き捨てられたそれにふりかえり相手を睨むものの、広間につづく廊下を曲がる背中は俺の存在など目に入らないかのように平然としている。苛立ちを噛み潰して研究室のドアを開けた。あ、おかえり、と、何の思惑もなくかけられる言葉に、ほっとした。
種族による差別の根強いこの研究院で『人間様』から罵詈雑言を賜る中、この、上司(一応)である奇妙な天才だけが、俺に分け隔てなく話しかけた。ただ単に差別をするのが面倒なだけなのだろうが、俺にとってそれはそれなりに有難いことだった。


心持ち、口元をやわらげて、手前の研究机に向かうアステルを呼ぶ。忙しい研究員は、律儀に資料から顔を上げた。(最近はすこしずつ、目を合わせる回数が増えている)


「先日のホロの丘の件だが、あそこの花は少量ずつ、研究院所有の土地に植え替えられるそうだ。染物の材料としての用途があるからそう安易には伐採も出来んし、院の警備のある場所ならウルフが来たとしても被害はそう出ないだろうから、とのことだ」
「そっか。念のために、村には来年の春にもう一度調査を送る手配もしておいてくれる?」
「ああ、わかった」


院長からの言付けを終えて、手配を忘れないように懐のメモを取り出して書いておく。ペンを机に置いて、アステルは席を立った。


「これから晩ご飯にするけど、リヒターもいっしょに行く?」
「ん? ああ、そうだな」


大枠の窓の外はまだ薄明るさをのこしていたが夏の日暮れは遅い。夕飯時にそう似つかわしくない時間ではなかった。以前よりも自発的に食事をとることの増えた少年に成長を感じながら、背にしていた研究室のドアを開けた。




夏野菜の炒めと冷ピリ中華の皿を取って、いつもより多い人の流れに気をつけながら出入り口近くのテーブルにもどると、アステルは先に座っていた。自分の皿を置きながら、丸テーブルに載せられた料理を見て眉をしかめる。


「お前、冷やっこ以外のものも食えと言っただろうが」
「うーん、きちんと三食たべる努力を評価するべきだとおもうな」
「・・・・減らず口め」


文句は言ったがたしかにこのところ食生活の安定してきたのは事実だった。朝はパンを食べていたし昼はご飯もいくらか食べていた。水分を取らせようと昼過ぎに持って行った桃も残さなかったのは立派である。(・・・俺の苦労もずいぶんと実をむすんだものだ)
向かいに座って箸をとる。手を合わせてから食べようとして、伸ばした箸がとまる。背後のくだらない会話が耳に入ってしまった。


「空気がまずくなるっていうの? 食欲失せるよねえ」
「言えてる、よくあんなのと同じテーブルで物なんか食えるよな? 案外天才様もハーフエルフだったりして」
「おい、やめろよ。名前だけでも虫唾がはしる」


聞くに耐えない中傷だった。若い声音からして、おそらく年少のアステルへの僻みもあるのだろう。(俺に留まらず、アステルまで・・・!)食欲が失せるのはこちらの方だと、止めた箸を握りしめる。いっそ部屋に持ち帰って食べようかと思った矢先、ガタンと固い音を立てて、アステルが立ち上がった。漆黒の双眸は俺の頭上を越え、そのむこうを見詰めている。少年の瞳にはめずらしい色が灯っている。(怒っ、て、いる・・?)


周囲の目を引くのも気にせず、アステルは言った。


「・・・ちがうよ、」
「へっ?」


うしろでは間の抜けた男の声がきこえる。表向きは気のいいお人よしで通っているアステルがまさか反論するとは思わなかったのだろう、動揺する気配が伝わってきた。見上げたまま、俺は次のことばを待った。


「彼はハーフエルフって名前じゃないよ、リヒターっていうんだ」
「っな、なに言ってんだよ」


狼狽、上ずった声。アステルは動じない。


「リヒターはすごいんだよ、僕の手の届かない高さの棚の薬品だってかんたんに取れるし、重い剣だって持てるし、ココアをいれるのだって上手いんだ。僕にいろんなことを教えてくれるし、わるいことをしたら叱ってくれる」
「それが、なんだって言うんだい」
「・・・・リヒターはハーフエルフだけど、きっと、僕より、きみたちより、ずっと人間らしいよ」


荒々しく席を立つ気配があって、俺はハッとふりかえった。背の高い男、長い腕、今にも俺につかみかかろうと伸ばされた白い袖はそれでも俺に触れることはなかった。吹っ飛ばされたのだ、勢いよく。俺まで巻き込みそうな突風が起こり長身を襲い吹き飛ばし、男たちのテーブルを豪快に倒れさせた。ガチャンガチャ、グラスが皿が割れ、硬質な音が食堂いっぱいに響いた。近くの席の女が悲鳴を上げる。罵っていたもう一人、小太りの男は腰を抜かして座り込んでいた。


誰がやったのかなど考える必要もなかった。顔に張り付く髪を手でどかしながらアステルを見やると、なおもしずかな憤りを目に宿らせ、男たちをみていた。食堂はひどい騒動だった。とにかくアステルを連れ出さねばなるまいと、立ち尽くす少年の手を引き、急ぎ足で部屋を出た。


研究室に入るとアステルは俺の手を乱暴に振り払った。ドアに鍵をかけてから身をかがめ、背の低い少年をのぞきこむ。ぷうと、頬を膨らませていた。


「・・・・アステル、お前、自分がなにをしたかわかってるのか? 同僚に術を使ったとなれば、院を追われることも、最悪罪に問われることだって、」
「むこうが先に、あんなことを言ったのがわるいんだ」
「苛立つのはわかるが、」
「だってリヒターを馬鹿にした! リヒターにひどいことを言った! どうしてリヒターは怒らないの!」


荒ぶるアステルの目には、感情的な涙が浮かんでいた。ぐっと、胸のうちが揺れる。言葉を選んだ。


「怒っていないわけじゃない、俺一人だったら殴り飛ばしていた。・・・だが、あの場で反抗すれば、お前に迷惑がかかると思った。いやなことはいやといえと、俺は言ったが、すこしは時と場所も考えろ」


俺がそういうと、アステルはぱちくりと、瞬きをした。それからすこしの沈黙のあと、ごめんねと言った。リヒターの気持ちを、僕はむだにしちゃったねと、つづけた。あやまるのならさっきの相手にしろと言うと、それはいやだと駄々をこねた。・・・頑固者め。




アステルの処遇は驚いたことに、三日間の謹慎だけで済んだ。その後一週間ほどは監視がつくと言い渡されたが、暴力沙汰を起こしたにしてはひどく軽い処罰である。どうしてなんだとアステルに聞いたら、曖昧に笑っていた。院長とは仲良しなんだと小さくつぶやいていた。


そして俺は、今回の件があってから前よりも陰口をたたかれるのが減った。俺を悪くいうと、あの温厚なアステルが激怒するという噂が広まったらしい。怪我の功名とでもいうのか、ありがたいことだった。面と向かって感謝するのはどうも気まずいから、これからは夕飯が冷やっこだけでも、三日に一回しか小言をいわないでやることにした。