立ち上がったのはリヒターだった。
のぞきこんで指先を見て、絆創膏をわたす。あまりに自然な流れについ、受け取ってしまった。呆然としているとなんだ巻けないのかと面倒くさそうにまた自分の席を立つから、私はあわてて首を振った。その間アステルはなにもいわず、手元の顕微鏡から顔を上げることもなかった。私はひどく戸惑いながら、もらった絆創膏を右手の中指にそっと巻いた。紙で切った指の腹、弱く押すと小さな痛みが走った。


精霊及びマナ研究科第一研究室。先日傷害事件を起こした室長アステルの監視という名目で、この部屋に出入りするようになって、三日が経つ。表向きはアステルを見張る役とされているが、実際に私が監視を命ぜられたのは、ハーフエルフのリヒター・アーベントの方だった。天才児が問題を起こすとは考えがたく、もしやアステルはハーフエルフによって悪影響を受けているのではないか、というのが上層部の見解だったのだ。アステルの同期である私も、穏やかな彼が暴力を振るうなどとは考えられず、その見方には同意していた。


けれどこの三日間で、その考えはどうも誤っていたように思われてきたのだから頭が重い。


「・・・リリーナ」
「! はい?」
「ココアと紅茶、どっちがいいと聞いたんだ」
「え?」


考え込んでいるといつの間にか、リヒターがにらんでいる。萎縮しながら、紅茶をと答えると、何も言わずに立ち上がった。つかつかと、アステルの机の片隅を借りる私の方にあるいてくるから緊張した。けれど彼は私を通り過ぎる。そうして私の背後、壁際の薬品棚から、ガスバーナーと三脚、金網をとりだした。アステルがようやく視線を上げる。


「あ、今日はココア、出るんだ?」
「・・・作らないとお前、無言で仕事を増やすだろうが」
「ああ、気づいてた?」
「当たり前だ」


スタスタと、リヒターは窓側の自分の机に向かい、馴れた手つきで火をつける準備を始める。私のおどろいているうちに手早く、ビーカーを使って紅茶とココアを入れてしまった。紅茶はそのままマグに移され、


「温度は自分で勝手に下げろ」


という言葉とともに、ひょいと差し出される。実験用のビーカ―で沸かされた紅茶はたしかにいい匂いをさせているけれど、いささか抵抗があった。するとリヒターは、アステルの分のココアに試験管でミルクを注ぎながら、ぶっきらぼうに言った。


「言っておくが実験に使ったことはない。新品からずっと飲料用に使っている。・・・悪いが、目盛りのついた器具でないと上手く紅茶が淹れられんのでな」


気になるなら水道に捨てろと冷たく言って、アステルにもマグを差し出す。アステルはくまの描かれた白いマグを受け取って魔法を使い、楽しそうにそれを冷やしていた。上級術を放ち、それを本当に狭い範囲に留めるなんて芸当、とてもじゃないけれど私にはできない。いつもどおりの笑顔でそれを淡々とやってのける天才少年と、いまいちよくわからないハーフエルフ、そして少なくともあと四日はこの研究室にいなければならない私。頭痛がしてきた。


受け取ったまま手持ち無沙汰にしていたマグをどうしたものかとおもっていると、ふと、リヒターと目が合った。目線はすぐにそらされたけれど、実験器具を片付けながら、どうもこちらを気にしている風だった。どうしたのかしらとしばらくようすをうかがって、ふと、私は気がついた。後ろでひとつに結んだ髪に紛れた、すこし、とがった耳、その髪と同じ色に染まっている。つい、笑ってしまった。バッとふりむいたリヒターがキッと私をにらむ。


「っ何を笑っている! 飲むのか飲まないのかはっきりしろ!」


(ああ、やっぱり。・・・・私が紅茶を飲むかどうか、気にしていたのだわ)
そうとわかると強面のハーフエルフが歳相応の青年らしく見えてきて、なんだかおかしい。(意外と、かわいらしいところがあるものね)いつも作っているココアと紅茶を私が来てから作らなかったのはきっと、私が飲むかどうかを気にしていたのだろう。くすくす笑いながら、いただきますとマグに口をつけた。


一口飲めば、喉にしみる。(・・・・おいしい)ずっと緊張していたせいで、知らないうちに喉が乾いていたようだった。まだ熱いけれど研究室はマナの調整が施されて涼しく、いささか冷えた身体にはちょうどよく感じられた。


「・・・ありがとう、おいしいわ」


そう言うと、窓際の大きな水道でビーカーを洗う背中はぴくりと震えた。私は笑った。




二人は夕食に行くと言ったけれど、私は研究室に残った。食事中の監視までは含まれていなかったし、いつも私が張り付いていたのでは二人も多少息苦しいだろうと思ったのだ。それに、一人でいる間に今日の分の報告書をまとめておかなければならなかった。
日付、天気、研究内容の進度、それから朝昼夜の大まかな行動を紙面に記載する。すこし迷って、紅茶の件は、書かないでおいた。なんだか、彼の好意にわるいような気がしたのだ。最後に異常なしと足して、ペンを置く。


大きく伸びをして、私もそろそろ食堂に行こうかしらとおもったところで、研究室のドアが開いた。アステルだけが帰ってきていた。


「ああ、おかえりなさい」
「うん」


小さく会釈するアステルに、目立たないようにゆっくりと報告書を鞄にしまうと、彼はドアの前で立ち止まったまま話しかけた。


「リヒターの調書は書き終わったのかな?」
「! ・・・・・リヒターの? あなたの、の間違いではなくて?」
「・・・そう。別に、僕のでもいいけどね。リリーナ、リヒターのことをわるく書かないでやってね」
「どうして、彼にそんなに肩入れするの?」


不思議だった。同期で院に入ったアステルとは何度か大きな実験で一緒になり、話したこともそう少なくはなかったけれど、これほど個人に固執する性格ではなかったように思う。たしかに人当たりはよかったけれど、誰か特定の親友がいたようには見えなかっただけに、リヒターとの関係は謎だった。


アステルは自分の頭も整理するように、ゆっくり話した。


「リヒターとね、いっしょにいると僕は、いろんなことを感じるんだ。えーと、楽しいとか、うれしいとか、あと、むかつくって、いうのかな? ・・とか、本当に、たくさんなんだ」
「・・・・どういうこと? あなたはいつだって、楽しそうにしていたじゃない」


ふふ、とアステルは微笑む。その笑顔はなんだか、異質に感じた。アステルの大きな目は、おだやかに細められる。


「まるで色覚が変わったみたいなんだ、世界が前とちがってみえるんだよ。僕のカテゴリはね、研究のこととそれ以外のこと、二つしか箱がなかったんだけど、今はなんだかずいぶん増えちゃったよ、最近は整理の仕方にとまどってる」


ココアはおいしいの箱に入っているし、冗談は楽しいの箱に入っているし、悪口とか、よくないものは、むかつくの箱に入ってるんだと、歌うようになめらかに少年は言う。


その漆黒の瞳に、私は彼の虚無を見た。
ようやく、すべてのつじつまが合ったような気がした。彼はきっと、根本的な部分で他人に興味がないのだ。昼間私が手を切ったときも顔を上げることすらしなかったし、思えば今のような穏やかな顔を見たことは今までに一度もなかった。リヒター・アーベントは、おそらく彼に初めて感情というものを教えた存在なのだろう。刷り込みだ。だからアステルも雛鳥のように、彼に執着をみせるのだろう。そしてそんな状態だから、リヒター以外の他人にはまだ意識が向かわないのだろう。食堂での一件が起きたのにも、納得がいった。


納得すると同時に、なんだかそれはひどく皮肉なことに思えた。人間なのに、どこか人間らしくない、まだまだ未完成のアステル。ハーフエルフなのに、どこか人間らしい、やさしいところのあるリヒター。おかしな図だけれど、不思議とお似合いにみえた。きっとアステルはこれからリヒターのそばで、ぐんぐんと、成長していくだろう。それはきっと、よろこばしいことだ。


口元に笑みの浮かぶのがわかった。アステルはじっとこっちを見たまま、だまっている。リヒターのことは上手く書いておくと伝えると、ぎこちなく、目じりをやわらげた。(いつか、私にも屈託のない笑顔が向けられればいい)




食堂に向かう途中の広間でリヒターとすれちがった。控えめに、アステルのことをわるくは書かないでやってくれと頼まれた。(ああ、もう! いやになるほどお似合いなんだから!)監視の期間がのこり四日しかないのを、私はすこし残念におもった。