その朝、アステルは熱を出した。
単なる風邪だったが、夏も終わり急激に冷え出したのに加えて連日の寝不足も効いたらしく、一人では自分のベッドから起き上がれないほどに衰弱していた。とにかく何か食えるものをと、食堂に頼んで作らせた粥を与えた後、薬を飲ませると、コップの水を飲み干したアステルは弱々しくシーツに手を伸ばして身体を起こそうとした。火照った手をにぎって大人しくしていろと諌めれば、にらむその目さえどこか、うすぼんやりとしている。呂律もろくろく回らないのに、少年は何事かうめいていた。唇に耳を近づけてみると、途切れ途切れの声が届いた。


「・・いか、なきゃ・・・・けん、きゅ・・・つ、ぼく・・・・した、ろん、ぶん・・・・・ぶん、が、」


根気よく聞くと、呆れたことにまだ研究室に行こうとしているらしい。たしかに明日は学会用の論文の締め切りで、焦る気持ちはわかるが三十九度の高熱で机に向かおうというのはどうかしている。学会は今回一度かぎりではないのだから、また次の機会に発表したところで遅くはないだろう。
今日は部屋から出さないぞと断言すると、アステルは荒い呼吸を繰り返しながら、虚ろな目で俺をみた。焦点さえ合っていない。


これ以上ここにいれば自分にまで風邪が移ると、立ち上がる。
ドアには鍵をしておくからなと言った俺の白衣の裾を、弱い、けれどしっかりとした強さで、高熱の病人はつかんだ。おどろいて見下ろすと、顔すら動かせないまま、熱に浮かされた瞳だけが縋るように俺にしがみついている。尋常ではない、執着だった。いったい、なにをそんなにこだわるのか。ふたたびしゃがみこんで咳混じりの言葉を、俺は聞いた。


「おか、あ・・・さん・・おかあ、さ・・・ぼく、ぼくに、は・・けんきゅ、う・・・・・しか、い、みが、・・ごほっ・・・ない・・ん、だ・・・」


『お母さん』と、アステルは口にした。そのあとはほとんど意味もなさぬ羅列をうめくばかりで話はわからなかったが、たしかにアステルはお母さんといった。家族の名前の出るのは初めてだった。そういえば、なぜ今までアステルは家族の話をしなかったのだろう。わからない。そして考えたところで、それが推測の域を出ることはないのだ。(・・・だが、妙に、気にかかる)
しばらくそのまま考え込んでいたが、ぜはあぜはあとつらそうな呼吸を繰り返しながらもただひたすらに研究室を目指す姿があまりに気の毒で、見るに耐えなくなって白衣を引いて部屋を出た。


なにか理由があるようにみえた。以前から研究に執着する面はあったが、それは性格的なものに拠るところが大きいのだとおもっていた。どうも、そうではないらしい。おそらく、家庭の事情というやつがあるのだろう。深い深い。(・・・あいつ、もっと、俺を頼ればいいものを、)


そんなことを考えているとどうにも、アステルの瞳が頭から離れなくなった。研究室にもどっても、机に向かっても、事務仕事を始めてもあの目が、俺をみている。漆黒の、熱の溶けた、縋る瞳。
机にペンを置いて、考える。考えれば、考えるほど、


「〜〜〜っ・・! くそっ!」


(本当に、手のかかる、やつだ・・・!)
あんな目で見られてしまっては、どうしようもないだろう! あの駄目上司の代わりに論文を仕上げる以外、なにができるというのか! わざと死ぬほど苦い粉薬を持っていくことくらいしかできまい! まったく腹立たしい!
苛立ち紛れ、勢いよく席を立つ。振り返った上司の机は地獄絵図だった。意気込み、ぴたりと速度を止める。この惨たんたる机上から論文の原稿を見つけ出すだけでも、骨が折れそうだ。俺は明日、無事に生きているだろうか。(・・・・仕上がった暁には給料の値上げを要求しよう)




* * *




おでこに載せられたタオルは、まだすこし冷たかった。たぶん、こまめに替えてくれたのだろう、ベッドのそばには元気をなくしたタオルがまだいくつか残っていた。熱は引いて頭はすっきりし、身体はずいぶん軽い。
ベッドをそっと降りると、窓の外の鳥が羽ばたくのが見えた。差し込む日差しは朝のそれだ。どうやら丸一日眠ってしまったらしい。身体の節々が軋んだ。
昨日の朝、粥を食べさせられたあとの記憶はなかった。何度かリヒターがやって来たような気もするが、夢かどうかは定かではない。ただ、熱心に看病してくれた跡があったからあとでお礼を言おうとおもった。
寝起き、そこまで頭をめぐらせて、まだなにか、引っかかるものがある。なにか、忘れているような。腕を組む。首をひねる。はっと、気がついた。


「論文・・・!」


慌てて走り出した。起きたばかりで多少足元はおぼつかなく、よろけるけれど気にしているひまもない、部屋を飛び出て廊下を駆けて、階段は一段飛ばし、一階に走る。


あわただしくドアを開けると、木のドアはゴツンと、なにかにぶつかった。音のした方、足元を見下ろしてひっと喉が震えた。リヒター! 倒れてる!
うつぶせの長身を、踏まないようにその背を越えて、しゃがみ、伏せ、床にぺったりはりついた顔色をうかがう。血色はわるくない、大丈夫。無事を確認して立ち上がり、自分の机に目をやって僕は、言葉を失った。
資料だらけの机の、真ん中だけ、空いている。他と距離をあけ置かれていたのは、論文の原稿だった。最後に見たときよりも、明らかに、数が多い。おどろきながら、近づいて、そっと、手に取った。


マナの物質化に関する論文。僕は起承転結、転まで論じたところだった。付け足された結論は、よく見知った丁寧な字でつづられている。(・・・リヒター、)


一通り目を通して僕はまたおどろく。きちんと、僕の考えたとおりに理論が展開されているのだ。リヒターには論文のための資料を用意してもらったことはあるが、内容を話した覚えはない。なぜと見回して、すぐ右手の文献の上に、皺の寄ったメモが置かれているのに気づいた。僕の走り書きだ。そういえば思いついたときに書いたかもしれない。それを元にしたのだろう。
それにしてもこんなに上手くまとめるとは思わなかった。能力があるのは知っていたが、彼の書いた論文を読んだことはなかったのだ。びっくりだ、階段を駆け下りていたときにはもう間に合わないかもしれないと半ば覚悟を決めていたのに。


(・・・だれかがいるって、ひとりじゃないって、こんなに、こんなにすごいことなんだ)


出来上がった論文を僕は綴じた。それから、最後のページにひとつだけ書き加えた。発表者欄、自分の名前のとなり、


リヒター・アーベント




* * *




何度かまばたくと見慣れた染みのある天井で、目を動かすと窓のない狭い部屋、最低限の家具だけ置かれたいつもどおりの無機質灰色の風景に、ひとつだけ異質の蜂蜜色をみつける。手を伸ばし、枕もとにあった眼鏡をかけてたしかめれば、ベッドのわきにはアステルがすわりこんでいた。俺が起きたのに気がつくと、おはようと穏やかにいう。寝ぼけ頭で返事をして、身を起こしてからふと思い出す。


「・・お前、具合はもういいのか」
「ん? ああ、うん」


大丈夫だよ、あっけらかんとアステルはいった。いつもどおりのアステルだ、本当に熱は下がったらしい。


「リヒターこそ、大丈夫? 研究室の床に倒れてたんだよ、」
「・・ああ、たぶん、寝不足だ」
「うん。だと思って部屋の方に運んでみた」


論文ありがとね、おかげで間に合ったよ、アステルが言って俺は思い出した。床に座るアステルをきつくにらむ。脳裏をよぎる昨夜の苦労と絶望、そして苛立ち、拳握りしめ、声を張る。


「っおまえ、メモをとるならせめて読める字にしろ! ミミズがのたうったどころか宙返りを決めたような字を書くんじゃない! 一瞬別の言語かと思ったぞ! 解読するのにえらく時間がかかった! だいたい、机の上はもっと片づけろといつも言っているだろう! 作業効率がわるくなる!」
「えー・・・・うーん、えーと・・ごめんね?」


小首をかしげる、微塵も悪びれない少年に頬が引き攣る。(おまえ絶対に改善する気ないだろう!)再度怒鳴りつけようとしたが、こほこほとアステルが咳をしたのでやめた。熱が引いたとはいえ、まだ完治したわけではないのだろう、半病人に詰め寄るのはさすがに気が引けた。
するとアステルは、俺を見上げて微笑んだ。


「ありがとう、リヒターが、看病してくれたんだよね?」
「え? ああ、リリーナにも何度か、ようすを見てきてくれと頼んだ。あとで礼を言っておけ」
「うん」


すなおにうなずいたのを見てから、すこし迷って、けっきょく聞く。


「・・・おまえ、家族はどうしているんだ? その、話しにくいことなら、かまわん、が、」


アステルは、きょとんとしていた。やはり聞いてはまずかったのだろうかと、俺が思ったとき、少年はやっと口をひらいた。


「うーんと、父さんは僕の生まれる前に亡くなったから、よく知らないなあ。お母さんも、あまり長いあいだ一緒にはいなかったし、家族ってかんじは、あんまりしないんだ」
「・・・そうか、込み入ったことを聞いてすまない」
「気にしてないよ、でもどうして急にそんなこと?」


病床でのうわ言のことを話すと、アステルは目をぱちくりさせておどろいていた。それから眉をハの字にさせて、弱く、微笑む。


「久しぶりに風邪なんてひくと、弱音が出ちゃうんだね。小さい頃お母さんに看病してもらった記憶でもあるのかな」
「アステル、無理に話さなくても、」
「ううん、話したいんだ。ちょっと長いけど、聞いてくれるかな?」


古い裸電球に照らされた瞳は、いつもとすこし、ちがう色合いを映している。出会って半年になるが、少年の漆黒の瞳はカットの変わるオニキスのように、様々な変化を見せてきた。ひどく気弱なこの色は、いま、初めて見た。アステルがなにかを話したいと自分から言うのも、初めてだった。
俺は黙ってうなずいた。アステルは落ちついた声で話し出した。


「父さんが早くに病気で亡くなって、僕の家はあまり裕福じゃなかった。母さんはいつもはたらいていたよ、だから僕は、歩けるようになってからは叔父さんの家に預けられた。叔父さんはたぶん、僕とどう付き合っていいかわからなかったんだろう」
「わからなかった?」
「独身で子どものない人だったからね、それに、僕はきっと、扱いに困る子どもだっただろうから」
「目に浮かぶな」


失礼だなあ僕だってその頃はもうすこし純真だったよとアステルは言うが、俺は聞こえなかったふりをした。そしてこんな子どもを預かった名も知らぬ叔父になんだか親近感を覚えた。
アステルの話はつづく。


「僕は毎日本を読んでいたよ、叔父さんは学者で、お金持ちではなかったけど蔵書だけは豊富だったから。でも、いつの間にか僕は書庫の本をすべて読み尽くしていた。それを知った叔父さんは僕に、この研究院を勧めたんだ」
「それで、院に?」
「そう、叔父さんが推薦書を書いてくれたし、僕は試験でトップだった。すぐに手続きの書類が来たよ。僕はうれしかった、院ではたらくことができればお母さんを助けられる、いつかお母さんと一緒に暮らせるとおもったんだ」


くしゃりと、アステルはわらった。目元の強張りをみつけて、手を伸ばして、無理にわらうんじゃないと頬にかるく添えても、少年はただ微笑を浮かべる。数年の、長きにわたって刻まれた表情なのだろう、痛々しかった。


「・・・僕はずっと、本を読んで勉強をしていたけれど、一日だけサボって、お母さんに手紙を書いたんだ。院に入るのが決まったことをとにかくはやく伝えたかった。明日、郵便屋さんが来たら手紙をわたそう、お母さんはよろこんでくれるかなあって、わくわくして、ねむれなかった」


小刻みに震えているのが、触れた頬からつたわってきた。こんなに痛ましい微笑を、俺は知らない。つづきを聞くのはためらわれた。けれどアステルが話すと決めた、俺は聞くと決めた。目は背けない。


「・・・・僕が郵便屋さんに手紙をわたす前に、郵便屋さんは僕にいったよ、お母さんがお亡くなりになりましたって」
「!」
「僕と一緒に暮らすためにって、はたらいて、はたらきすぎて、お金がようやくたまったときに、流行り病でお母さんは死んじゃった。僕は、自分が一日勉強の手を抜いたから、罰が当たったとおもったんだ、」
「おまえのせいじゃ、ない、」
「・・・・お母さんのお金でお葬式をしたよ、叔父さんが街の花屋を全部まわって、お母さんの好きだった花をたくさん添えた。お母さんはきれいなお化粧をしてもらって、子どもの僕からみてもとても美人だった。僕が覚えているお母さんの顔は、それだけ」
「っ!」
「その顔がとてもきれいだったから、僕はそれを真似するようになった。ずっと笑顔でいると、周りの人はそれなりに優しくしてくれるのがわかった。便利だとおもった。他人とはそうやっててきとうに付き合って、僕はただ研究に打ち込んだ。研究だけに意味があった、研究をつづけなければ、僕は僕でいられなかった」


とうとう頬を流れたひとすじ、指に触れて、堪えきれなくなって肩をつかんでひきよせた。力ない身体はかんたんに腕の中におさまって、俺はその小ささに驚愕した。押し付けた肩口に染みてゆく温かさ、つよく抱きしめるには脆すぎる背中、俺の腰に縋りついた弱々しい手のひら。
春の言葉がよみがえる。アステルは過労で運ばれた保健室で、微笑みながら言っていた。


『ぼくはね、研究にしか、意味を見出せないんだ。・・・つらいとかかなしいとか、うれしいとか、そういうものが、よく、わからないんだよ』


あのときはまだぼんやりとしか理解できなかった、その言葉が輪郭を持ち肉をつけ陰影をつくり、確りとした形になる。その姿がかいま見え、少年の虚無に触れて、俺はその細身を抱きしめる以外に受け止める方法がわからなかった。壊さないように両手で抱いて、小さな頭をそっと撫ぜた。
アステルは声を押し殺し泣いていた。そのうち嗚咽がもれ始めた。やがて大声で泣いた。わんわん泣いた。数年分の涙は俺の白衣に大きな染みをつくった。俺もすこしだけ泣いた。



(寝て起きて、赤い目元をからかって、満腹まで飯を食って、それから白衣を干そう、研究室も掃除しよう、明日、晴れたら)