手元の文字がぼやけると、思った瞬間マグをたおした。
途端に目が冴え、手に掛かった飛沫よりも机の上の書類に向かって流れ出したココアにあわてて、薬品棚の取っ手にかかったタオルを取って急いで拭いた。白いタオルを茶に染めていると、うしろでペンを置く音がした。背中合わせの研究机に向かっていたリヒターがオフィスチェアをうしろに倒し、首を捻って僕を見上げる。


「アステル、拭き終わったら今日はもう部屋にもどれ」
「わかってるよ、・・・過保護だなあ」
「不満なら、自主的にもうすこし手のかからない人間になるんだな」
「むー」


不機嫌な顔を作ってはみたけれどリヒターに世話を焼かれるのは嫌いではなかった。汚れたタオルをまとめながら背を向けると、うっかり口元がゆるんでしまう。いけないいけない、頬をひきしめて窓際の、水道でタオルを洗った。大枠の窓のむこうでは二つの月が薄明るく照らしている。布を絞ると手を伝う水滴、窓をすりぬけた風になぞられて肩が震えた。水道の手すりにタオルをかけて振り返ると、リヒターが立ち上がった。


「部屋まで送る」
「もー! そこまでしなくても平気だよ、」
「・・・・そう言って昨日階段で寝ていただろうが」
「う・・・」


事実にはちがいない。昨夜は疲れていて、自分の部屋にたどりつく前に力尽きてしまったのだ。反論しようがなくて、僕は大人しくリヒターに手を引かれた。




電気の落とされた暗い廊下、リヒターに連れられて歩く。広間でとなりの部署の研究員たちとすれ違った。通り過ぎた三人は僕たちを見てこそこそと話をしていたけれど、その中身がすこしだけ耳をかすめて僕はにっこりした。僕の手をつかむリヒターの指先はいくらか強張った。


「リヒター、ねえ聞いた?」
「・・・・何の話だ」
「あれ? 聞こえてなかったの? あの人たち、リヒターのこと見直したって、」
「興味ない」


そっけなくリヒターは僕の言葉を切った。階段をのぼる足はすこしばかり早かった。僕はくすくすと笑った。不機嫌そうにぎゅうと手を握られた。


周りの研究員がリヒターを見る目は、ある日を境に変わった。ある日、リヒターが僕の助手から、一般の研究員になった日からだ。本来ならハーフエルフが人間と同格に扱われるのは異例中の異例なのだそうだが、今回のリヒターの昇進には先日の、マナの物質化の論文が絡んでいた。


彼の寝ている隙に名前を足して、僕とリヒターの連名で書いた論文は学会で高い評価を受け、その結果、国からの研究予算の追加が取り決められたのだ。そうして次の日には、広間の掲示板にリヒター・アーベントを正式な研究員に認める旨、書かれた紙が貼られていた。


普段以上に奇異の視線にさらされ、リヒターはむすっとしていたけれど、自分の評価のせいで他のハーフエルフの待遇が以前より改善されたらしく、研究室では穏やかな顔をしていた。見回すとまだ蔑む人もいるけれど、差別の目もいくらかやわらいだような気がして、僕はなんだか自分のことのようにうれしかった。




一人で寝るには大きすぎるベッド、身を預けると気だるい眠気がやってくる。覚束ない指で掛け布団をたぐっていると、もたもたしている僕を見かねたのかリヒターが肩までかけた。離れようとする手をつかむ。眠気にもやのかかる視界、リヒターは首を傾げている。目蓋を持ち上げて僕は言った。


「もうすこし、僕が寝るまで、いてくれる?」


ため息をつくのが聞こえた。これは、『しょうがないな』のため息だ。僕はふふと笑った。リヒターはゆっくりとしゃがむ。この前ひどい熱を出してから、リヒターはいつもより僕に甘かった。そして僕は、彼には甘えてもいいのだともう知っていた。
目を瞑る前、最後に見た月夜はひどくやさしかった。


(手のひら、あったかい、安心する)