呼吸すら忘れ、ひた走った。
土も埃も気にせず廊下を行き中庭を突っ切り、研究員寮をぐるり回ってその奥の、裏庭、廃棄物処理場にようやく着けば、すでに灰色の焼却炉はもうもうと煙を上げ熱心にはたらいていた。職員の姿は、ない。(ああくそ! 遅かった!)慌てて取っ手をつかめども、直に金属の熱さに触れて飛びのいた。地面に尻餅、固い衝撃に苛立ちながら白衣を脱いで、丸めてくるんだ手を伸ばす。接触の悪い取っ手をなんとかこじ開ければむっとした熱気が立ち込める。まばたきをして、そこに――俺の探していたものは、もうなかった。


呆然と、焼却炉の扉を閉めると、初秋の肌寒さが白衣をはためかせ灰を散らしながら項を撫ぜた。知らぬうちにひどく汗ばんでいる。放置したら風邪を引くかもしれない。しかしそんなこと些細な問題にすぎない。失ったものは、あまりに大切すぎた。


師に貰った本だった。
旧師、少々偏屈なハーフエルフ、数百年ほど生きていた男は半ば、俺の育て親だった。幼い頃に肉親と引き離され地下に押し込められた俺をそれは面倒くさそうに世話してくれたのだが、数年前メルトキオの研究所に移送されてからはぱたりと交流を失ってしまった。時折メルトキオから使いの来るたび姿を探すが、やはりハーフエルフはそう頻繁に外には出されないせいでその姿を見ることは一度もなかった。


その師が去り際俺によこした、最初で最後の物だった。古びた専門書でページはすっかり日に焼けていて、書き込みだらけの汚い本だったが、唯一師と仰ぐ男が俺にくれた、その行為にひどく重い価値があった。地下から地上に移されるときにまとめた少ない荷の中にも入っていた物だ。古本は古本なりに、大事にしていた。


喪失感に虚空を仰ぐ。澄み切った水色には白煙がひろがっていた。




しわくちゃの白衣で研究室にもどると、アステルはのんびりと茶菓子を食べながら、本はあったかい? と聞いた。気の抜けた口調に腹が立つ。返事はせずに、ずかずかと、歩いて自分の席に座った。ドスン、ギギィとオフィスチェアが喚くが気にはしない。今だけは背後の少年の顔を見たくなかった。


元はといえば、アステルの汚い机が原因である。毎度のことながらあまりの汚さに掃除をしろと注意したところ、一日で片付いていたのがまずおかしかったのだ。今回はよく片付けたなと誉めてからふと、自分の本のないのに気がついた。アステルに尋ねた。本の山に紛れていて、古くて読めなかったから清掃員に渡したと言った。だから走った。そしてもうなかった。


ひどく苛々した。そういつまでも腹を立てていても仕方のないこととわかっているが、それでも落ち着いて作業する気にはなれなかった。アステルに頼まれていた資料と思うと、ますますやる気が失せる。ペンを手に取ったままなにもできずに、ただなくなった本のことを考えていた。
するとうしろから、間延びした声が呼ぶ。


「リヒター、ココア」


聞こえなかったふりをした。アステルは不思議そうに何度も俺の名を呼んだ。いま忙しいと突っぱねると、なにもしてないじゃないかと声をとがらせた。とうとう苛立ちが破裂して、立ち上がる。バッと振り向くとアステルはきょとんと小首を傾げた。


「・・・・・お前、俺になにか言うことはないのか」
「へ? いうこと? えー、と・・・お菓子もつけてくれる?」
「っ! そういうことじゃ、ない!」
「リヒター? どうしたの?」
「本を勝手に、ごみに出しただろう!」


束の間考え、アステルはああ、と手を打った。ごめんねと、軽い口調で少年はあやまる。それから、


「でももう文字も読めなかったんだから、いつまで持っていても仕方ないよ、新しいの、あとで注文しておくから」


と、なにげなく言ったからもうこれ以上話をする気すら起きなかった。(そういう、問題じゃ、ない・・!)あいかわらず不思議そうな表情を浮かべたアステルを置き去りに、日も早いが研究室を出る。人気ない廊下、むしゃくしゃと壁をたたけば鈍い音が木霊し、じんと拳に痛みが走った。(・・・・アステル・・!)




そして戦いは唐突に幕を開ける。ココアの出なかったのがよほど腹立たしかったのか、次の日からアステルによこされる仕事は目に見えて増えた。助手ではなくなったが人間に逆らえばすぐにでも処罰されるハーフエルフが首を振ることなどできるわけがない。俺は淡々とそれをこなしたが、仕返しにココアには砂糖を一切加えなくなった。アステルは恨めしそうな目で俺を見ていた。


そのうち仕事は倍になった。俺はココアに添えて、自分で作った菓子を出してやった。認めたくはないが自分の料理の破壊力にはそれなりに自信があった。うっかり口に含んでしまったアステルは心底恨めしそうな目で俺を見ていた。


そして次の日不可解な言語で書かれたメモを手渡され、それ早めにお願いと告げられた。解読には三日かかった。数千年前に失われた古代エルリノ語だった。加えて難解な暗号だった。徹夜で解いて、六十七通り目で見つけた言葉は、「おいしいココアを入れてね」だった。ビーカーを叩き割りたくなった。


言葉なき冷戦はかれこれ二週間ほどつづいている。傍目にもやはりそれが伝わったらしく、とうとう見かねたリリーナが俺に事情を聞きに来た。苛立ち紛れに話をすれば、それは気の毒にと眉をひそめた。それから控えめに提案した。


「気持ちはわかるけれど、そうね、すこしでも気休めになるなら、新しい本を買ったらどうかしら」


俺はゆっくりと首を振った。


「とうの昔に絶版になっていてな、今では探すのも難しい」
「そう・・・残念ね」


リリーナがなにかを言いかけたとき、研究室にアステルが帰ってきた。俺はそれを睨み口をつぐむ。リリーナは困ったように微笑して自分の研究室にもどって行った。


状況の急変したのはそれから数日後、白衣が冬用の、すこし厚手のものに変わったころだった。それまでは学会直前のように膨大な量の仕事を言い渡してきたアステルだったが、ある日を境に急に、一切の用事を俺に回さなくなったのだ。何が起きたのかとしばらくようすを見ていると、アステルはどうも、研究以外のことにそわそわと気を回しているようだった。それから、休みのたびにどこかに行っているようすだった。研究室にこもりがちな少年にすれば珍しいことで、俺は冷戦を一時的に休止して、なにかあったのかと聞いたが明確な返事はなかった。


そうしてさらに数日してようやく、その理由はわかった。
机でレポートをまとめているとふと差し出された一冊、深緑の表紙も金の題字も古びていたが、たしかに俺のなくしたものと同じ本だった。おどろいてチェアを回し、うしろの席をふりかえる。アステルはうつむいて本を差し出していた。


「お前、これ、」
「・・・・古本市を何度かめぐって、見つけてきたんだ」
「っ新しいものがあればいいというわけでは、」
「うん、わかってる」
「え、」


スッと、アステルは顔を上げた。まっすぐに俺を見据え、少年は言った。


「リリーナに聞いた。一日ずっと考えて、やっとわかったんだ。ごめん。リヒターの本は、僕がお母さんに宛てた手紙とおんなじだったんだね、たったひとつ、家族とのつながりだったんだ。・・・ごめんなさい」
「・・・アステル、」
「同じものがあればいいってわけじゃないって、わかってるけどこれくらいしか、僕にはあやまる方法が思いつかないんだ。――だから、できれば、受け取ってほしい」


伸ばされた手、小刻みにふるえている。漆黒の瞳は実験中でもないのにかぎりなく、真剣だった。(そうか、俺は本が惜しかったのではない、アステルの態度に苛立っていただけだった)
黙って、その手から本を取った。アステルは気が張り詰めていたらしく、ほっと、息を吐いた。それからくしゃくしゃとわらった。


「よかった、受け取ってくれなかったらどうしようとおもった」
「・・・・反省しているのは、それなりに、伝わってきたからな。だが次はないぞ、わかったら今後は気をつけろ」
「うん」


リヒターのココアが飲めないのは困るからと、アステルは眉をハの字にした。時計は午後三時、俺は立ち上がる。紅茶とココアの時間だ、作らないと同僚が拗ねる。久々に手にしたくまのマグは、やけに、手に馴染んだ。