流れる鮮血、木目を染めた。
ため息をついて包丁を置き、短く回復魔法を唱える。淡いみどりの光が指先を覆い、傷口をふさいだ。ファーストエイド、ファーストエイド、今朝はもう、何度言ったかわからないほど口に馴染んだ言葉である。(一流のコックさんはきっと、回復魔法の達人にちがいない)中指の違和感の消えたのを確認して、朱のにじんだ布巾でまな板をぬぐった。


料理なんて生まれてからこの方ほとんどしたことがない。幼いころは多分お母さんの料理で育ち、その後は叔父さんの買ってくる下町の味で過ごし、そして今は便利なバイキング形式の、院の食堂に世話になっている。


つくる暇もなかったし、つくる相手だっていなかった。だから包丁があまり上手く使えないのも、しかたのない話だ。事前に包丁のより扱いやすい角度を算出したのに、実際に厨房に立てば理論はなんの役にも立たなかった。(・・・動物の身体から採取するのは、得意なんだけど・・)


予定時間を大幅にオーバーして材料を切り終え、僕はふうと息を吐いた。手の甲で戦いの汗をぬぐえばつんと、玉ねぎの移り香が目にしみた。
一センチ四方、正確に切りそろえたみじんの玉ねぎ、一口大の大きさを人に聞いて調べて格闘したハムと、計量済みのグリンピース、待ちくたびれたとでも言いたげに、ボウルの中で待っている。材料をそろえるだけでも時間がかかったけれど、レシピ通りに作らないと上手くできる自信がない。実験と同様、計量、大事である。


えーと、最初は油だったかな? 手を洗ってまな板の横、くしゃくしゃのレシピに手を伸ばした。


休日の朝に研究員寮の片隅、最低限の設備だけ整えられた厨房で、わざわざ目覚ましかけてベッドからなんとか抜け出して、調理に勤しんでいるのにはわけがある。この前怒らせてしまったリヒターへのお詫びに、料理をつくるのだ。これからもおいしいココアをお願いしますの気持ちをこめて、僕はおいしい朝ご飯をつくるのだ。


目を覚ましたリヒターがびっくりするのを、想像するとわくわくする。他人のためにこんなことをするのはなんだかヘンな感じがするけれど、けっこう、たのしい。おいしいって言ってくれるかな、考えると、学会の前のように、どきどきする。・・・・・そんなことを思っていたらまた手を切ってしまった、料理中の考えごとは、危険である。


* * *


ほかほか、形はいびつだけどふわふわの、半熟の、たまごに包まれたオムライス、平たい丸皿に載せられてさあどうぞといわんばかりにこっちをみている。ケチャップでリヒターへと添えたら、字が大きすぎてはみ出てしまった。でも出来たてを食べさせてあげたい、リヒターがリヒクーになっているのにはちょっとだけ目を瞑って、トレイに食器を載せ、落とさないようにそろそろと静かな廊下を行く。




街の隙間を縫うようなでこぼこの形、背の低い二階建ての寮には数十の部屋が敷き詰められ、新人の研究員などが多く暮らしている。各々の部屋は狭いが、住人のほとんどは寝に帰るだけの生活を送っているためそれほど不都合はないらしい。院の食堂ではなく寮の厨房を借りたのは、こっちの方が人の出入りが少ないと思ったからだった。実際、朝だというのに厨房や、食事用スペースに来る人はだれもいなかった。片付けも放ってきてしまったけれどそれほど問題はないだろう。




細長の廊下の奥から二番目が、リヒターの部屋だ。片手でトレイを抱え、ノックをしても返事はない。皿の水平に気をつけながらそっと、ドアノブを回して中に入ると、リヒターは眠っていた。


足を踏み入れると、ゆっくりと寝返りを打ってこちらを向く。簡易なベッドボードにトレイを置いて、その横の、丸いランプを点けた。やわらかい光が窓のない部屋を満たし、リヒターはもにゃもにゃとなにか形ない言葉を口にした。


よく眠っているけれど、料理をつくるのには時間がかかってしまったからもう昼に近い、起こしても文句は言えないはずだ。しゃがみこんで固いスプリングに肘をついて、手を伸ばす。白衣のままの肩口を数度軽く揺すると、重そうな目蓋を持ち上げた。寝ぼけているのか、小さく首を傾げている。朝ご飯だよと僕が言えば、ものもよくわからないようだったがとりあえず口を開いた。数度肩をたたいても薄目を開けただけで、しゃっきりと起きるようすはない。(そういえば昨日は熱心に実験を繰り返していたっけ、)


しかたないから僕がスプーンですくって運んだ。もぐもぐと、リヒターはゆっくりと噛んで嚥下する。また口を開けるからもう一口、また一口と食べさせた。素直に飲みこむさまはなんだか雛鳥のようで、ちょっと面白い。


皿を傾けてスプーンですくい、最後の一口食べさせる。リヒターはまだしばらくぼうっと口を開けていたけれど、空いた皿を片付けるとやがて目をとじた。ハンカチを取り出して口元を拭いて、起きないかなあと思って見ていたがやはりよく眠っている。なんだか物足りない、おどろく顔を期待していたのに。玉ねぎすっごく泣いたのにとか、たまご包むの大変だったのにとか、思うところもある。


だけどいつまでこうしていてもしかたないと諦めて、立ち上がる。するとリヒターは何事かつぶやいた。よく聞こえない。腰を折り、耳を唇によせる。しばらく待って、届いた言葉に目を見開いた。唇がふるふるする。にやけてしまうのはなんだか癪で、すこしの間我慢していたけれどけっきょく笑ってしまった。


すやすや寝息を立てている。もう昼どきだがまだゆっくり寝かせておこう。ベッドボードの食器をそっと持ち上げた。ランプは消して、部屋を出る。




廊下、ちらほらすれちがう研究員たちは研究院で暮らす僕が寮にいるのにすこし注目しているようだったけれど気にもならなかった。さっきの言葉はまだはっきりと残っている。うまいとたった一言、でもその一言がうれしかった。起きたらリヒターは覚えていないかもしれない、ただの自己満足だ、でも、それでもいい。研究以外で僕に意味成すもの、形もないけど価値のあるもの、そんなものに出会えたことが、ひどくうれしいのだ。


あいかわらず人のいない厨房にもどると、シンクには玉ねぎの皮や使ったボウルが残っていた。ご飯を焦がしてしまったフライパンも黒い匂いで主張している。トレイを置いて、腕まくりをした。水の冷たい時期だけど、身体のどこかがあたたかい。ぽかぽかした気持ちで僕は水道をひねった。







[参考資料]
・料理、その愛
 ブライアン著/レザレノ出版

・『冬恋☆マニュアル』〜朝は手料理で彼を起こそう! 特集〜
 ゲスト:マルタ・ルアルディ/ヴァンガード書房