扉を閉めると穏やかなあたたかさが充満する。
入り口のわきに並べられた青いじょうろをひとつ取って、そのとなりの水道をひねった。流水はジャボジャボと勢いよく溢れ、いくつか指に飛び散った。中庭をとおり抜けてきたせいで冷えた指先にはすこしばかりしみて、背筋が震える。もみ手しながら、水を止めた。
広い室内に目を向けると花壇の花々はまるで、俺を待っていたようにこちらをみていた。覚えず、口元がゆるむ。


楚々とした控えめな花から大口を開けた食虫植物まで数多の植物が共生する温室は、研究院の裏手、給水タンクのとなりにビニールを貼られていくつかの区画に仕切られている。主に生物科の職員が実験、観察用の草花を保護しているのだが、現在生物科は人員が不足がちで、温室全体の管理はむずかしいのだそうだ。


そんな折、俺がホロの花の移植を頼んだのがきっかけで、その周辺の区画の世話をしてくれないかと頼まれたのだ。科長は白樺のように細く青白い男で、しかし大木のようにおおらかな性格をしており、ハーフエルフの俺をあまり酷く差別することもないので、二つ返事でうなずいた。


学会前などはなかなか忙しくて構ってやれないこともあったが、それなりにまめまめしい性分のせいで、なんとか担当区画は枯れ木にさせず保っている。俺に任された花壇は、第一区画に敷かれた三つのうち、右側の縦に長い花壇である。花々はさまざまな色を咲かせ整列し、行儀よく、世話主の来るのを待っていた。膝丈にも届かないものがほとんどだが、前回訪れたときよりいくらか背が伸びたような気がするのは親心だろうか。


仄かに冬をしめらせてきたこのごろは、それほど水をやらなくてもいいと聞いている。分量をよく考えながら、すこしずつ、地面に水を染みこませゆく。草木は専門外だが、自分の花壇にあるものは名前もすっかり覚えてしまった。橙の、大振りな花弁をつけたアロルの花は水をはじき笑い、そのとなりのヘノウは水色の細長い花びらから涙のように滴らせる。水やりひとつとっても見せる表情がちがって、世話をしているとずいぶんと気が和らぐ。今では同僚の愚痴に付き合ってくれるよき友である。


ところどころに生えた雑草を引き抜いていると、キィと、ビニールのドアが開く音がして、寒さが一陣吹き込んだ。顔を上げればリリーナが立っている。両手にはひとつずつ、湯呑みを持っていた。


「生物科の人間に用か? わるいが今は、」
「いえ、あなたによ」
「? 俺に?」


終わったらお茶でもどうかしら、リリーナはゆったりした口調で言った。彼女とは、アステルを通して時折会話をするだけの関係だったのでおどろいた。思いがけない誘いだったが、急ぐ用事もないので首を縦に振った。第一区画と第二区画のあいだ、すこし空いたスペースに置かれた、白い木のベンチにリリーナは座って俺を待った。鼻の頭の汗をぬぐって、俺は作業にもどった。


ややあって、手を洗った俺はリリーナの座るベンチの、横に腰かけた。真ん中の花壇に並ぶ白い花の甘い匂いが鼻腔をくすぐった。リリーナはお疲れさまと、俺に陶器の湯呑みをよこした。緑茶は温室に守られてそう冷めることもなく、渇いた喉を心地よさで潤した。一口で半分ほど飲み干して、あたたかなため息をつきながら、彼女を振り向く。


「待たせてすまない、何の用事だ?」
「ああ、大した用はないのよ、ただすこし話がしたかっただけで」
「話?」


首を傾げると、リリーナは明るく笑う。ふわり、頭のうしろで結んだポニーテールが揺れる。


「よく、ここにいるわね」
「見ていたのか、」
「たまにね。・・・最初はひどい仏頂面で花壇を睨みつけているものだから、ずいぶん怖かったけど」


(・・・仏頂面の、つもりはなかったのだが・・・)


俺の考えていることを読み取ったのか、リリーナは顔の前で手を振った。


「最初だけよ、この頃はずいぶん表情がやわらかくなったもの」
「・・・・・俺が、か?」
「ええ」


心当たりがない。そうかと聞き返してみれば楽しそうにリリーナはうなずいた。茶を一口飲んでからつづける。


「出会った頃はね、やっぱりすこし怖かったの。その、やっぱりハーフエルフにはあまりいい印象は持っていなかったし、食堂での事件があったあとでしょう」
「ああ、そうだったな」


初めて会った夏のころを思い出す。アステルの監視役として派遣された彼女は、同じ室内にいながらも遠巻きに、俺をうかがっていた。それを思うと目の前の、打ち解けた微笑はなんだか眩しく見えた。自分の存在を認められたようで、居心地がいいが、すこしばかり照れくさい。手の中の緑茶を意味もなく軽く揺すった。


つかの間、穏やかな沈黙があって、それからしみじみとリリーナは言う。


「短いあいだにだいぶ変わったわ、あなたも、アステルもね」
(アステルはともかく、俺もか?)
「私たちがいくら止めても、倒れるまで机に向かっていたアステルがきちんと食事をとってくれるようになったのは進歩だわ。同期だけど、私よりずっと年下で心配していたから、あなたには感謝してる」


ちょっとだけ嫉妬もあるけどね、リリーナは秘密の話をするように小声でつけたした。なんだか気まずくて、言い訳する。


「・・・上司の体調管理は、助手の業務内容の範囲だっただけだ」
「あら、そう。それならそれでいいわ。・・・・でも、アステルがとなりにいるとね、あなた、目がとてもやさしくなるのよ」
「謹んで眼科の受診をお勧めする」
「ふふっ、結構だわ」


ころころと、鈴の鳴くようにリリーナは笑う。


「変わるものね。あなたが冗談を言う日がくるなんて思わなかったわ」
「そうだな」
「この前だって、真剣な顔で花に語りかけていたから私、つい笑っちゃったのよ」
「あれは、同僚の愚痴をすこしな、」
「アステルの?」
「・・・本人には言うなよ」


どうしようかしら、リリーナはわざととぼけるから、俺の花壇の花を一輪やるからと言うとうれしそうにうなずいた。温室は適度なあたたかさと、甘い匂いと、居心地のよさに満たされていた。