キラキラリ、夜に積もり積もる。
闇夜には白い雨が降っているだけでなんとも思わなかったのに、さくさくり、踏みしめて眺めれば白銀に青空の映えてキラキラとまばゆく、うつくしい。


目に映る景色は一冬前までの、事象としての『積雪』とは意味がちがう。きれいやわくわくを積み重ねた雪、走り出したいような気持ちに駆られる白の風景。横を見ると対照的な赤が苦笑混じりにうなずいて揺れる。僕は声にもならない声を上げ、雪の中庭に駆け出した。


学園都市サイバックは中緯度に位置し、温帯に属しているため、年間を通して比較的温暖な気候であるが、今年はめずらしく、一面に雪が降り積もった。わずかにちらつくことはあれど、膝の半分まで埋まるほどの降雪量は数年ぶりである。冬季休暇に実家へ帰っていた気象部門の研究者たちがあわてて研究室にもどってきて、二階の廊下はごった返していた。今ごろは忙しく観測を行っているところなのだろうと思いながら、両手いっぱいに冷をすくう。すくった先からすこしずつ溶けて、手首を伝った。


凍った噴水の縁に腰掛けたリヒターは手を擦り合わせながら、あまり長居はしないからなと言う。寒がりで寝起きの悪いリヒター、引っ張り出すだけでも一苦労だった。ベッドから一生懸命ひきずってきたのに、僕の努力を無視してすぐにでも帰りそうな顔。僕は冬の街でたまに見かける子どもらの姿を思い出して、両手に持った雪をぎゅっぎゅっと握った。そうして右腕振り上げ、ひゅいんと眼鏡めがけ!


「っ!」


すんでのところでリヒターは避けた。ぺしゃり、雪玉はつららのように凝結した噴水に当たり砕ける。よろめいたリヒターは唇わなわな、目をキッとさせて僕をにらむ。中腰はつらかったのか、膝からくずれて両手をついた。眼鏡はずれ落ち雪にしずんで、変な形の足跡をのこす。僕はお腹を抱えて笑った。(もうリヒター! かっこわるい!)大笑いしていたらべしゃりと肩に一発喰らう。じわり、染み込んでひやりと冷える。僕はあわてて、反撃に出た。


ぜえはあ、息の乱れ、渡り廊下に並んで寝そべるころには二人とも汗やら雪やらでびしょびしょだった。走り回ったせいで火照る身体に寒さは感じないがリヒターは僕の肩に自分の白衣をかけた。おまえは俺より身体が弱いんだからといってきかなかった。同僚はひどい心配性である。(うれしくないわけじゃないから、黙って借りてあげるけど)
息切れのすこし納まってきたころふと、リヒターは口を開いた。


「・・・まさか本物の雪を見る日が来るとは、思わなかったな」
「え、・・・・あ、」


地下での生活のことを言っているのだとはすぐにわかった。幼い頃からの、日の当たらぬ日々のこと、リヒターが口にすることは少なかった。僕はどう返事をしたらいいのかわからなくて、寝転んだ横顔を見ながら小さくうなずく。リヒターはふっと、目蓋をとじた。


「癪な話だが一応、・・・感謝は、している」
「? なんのこと?」
「おまえ、俺を選んだだろう」
「あ・・助手のことかい? あれは、」
「わかっている。どうせちょっと目に付いたからとか、大雑把な理由で決めたんだろう?」


読まれている。僕はすこし申し訳ない気持ちで肯定した。リヒターはくしゃりと笑う。


「それでもうれしかった、数十の紙束から俺を選んだ人間がいること。・・・会ってみれば相当な問題児で、正直、貧乏くじを引いたとは思ったがな」
「! 貧乏くじなんかじゃないよ、失礼な!」
「・・・どうだか」


くつくつとリヒターは喉で笑う。僕が横目ににらむと堪えきれないとでもいうように目をこするからよけいに腹が立った。足を伸ばして蹴ろうとするのに、短くて届かない。(あ! 今、また笑ったでしょ!)
リヒターは笑い終えるとゆっくりと、身を起こした。そうして僕は見ずに、ぽつりと言う。


「・・・・感謝しているんだ、本当に」


冬の逆光、その横顔を照らしやけに、キラキラと見える。水気を孕んだ赤毛はしっとりと肩に落ちて頬にかかり息をするたび揺れ、やわらかい影を落とし、いつもは固く結ばれている唇は心もち持ち上がり、ゆるやかな曲線を描いている。深緑の瞳はキラキラの世界を反射して、淡く光っていた。


不意に、ぎゅうと胸が締め付けられる。(・・あれ?)心臓を熱が覆い鷲掴みにされるような、そんな内の感覚に背筋が震えた。(なんで?)風邪を引くからもうもどるぞ、そう言って差し出された手のひら、僕はつかめずにいた。(おかしいぞ、)業を煮やしたリヒターが、投げ出していた僕の手に触れる。(っ!)反射的に、逃げ払った。(・・・・・なんで、)きょとんとした目と眼鏡越し、視線かち合い狼狽する。


(雪よりキラキラできれいだなんて、なんでだろう?)






原因不明、病名不明の心臓の病気だとしか、考えられない。だって僕は何冊も何十冊も医療の本を読んだのに、どの資料にもこんな病状は記載されていないのだ。『脈拍が上がり動悸が起こり、心臓が苦しくなる』という表記ならいくらでも目にしたが肝心の、『特定の人物を見ると』という条件の文がどこをさがしても見つからないのだ。


おかげでこの数日リヒターとはまともに目を合わせることもできず、僕はひとり部屋にとじこもり、悶々と、重たい目で資料を読みふけっていた。いつのまにか眠ってしまい何度かリヒターに起こされて食事を摂らされたり風呂に投げ込まれたりしたが、そのたび気まずくてそそくさと済ませ、大事な調べものがあるからとまた部屋にもどってしまった。リヒターは困ったような顔をしていた。


しかしそれもしかたのないことだ、だって迂闊に話でもして僕の心臓がうっかり止まりでもしたら大変だ。僕はもっとずうっとリヒターと一緒に研究をしていたいのだ、死んでしまえばそれもかなわない。


毎日毎日本を読んだ。ベッドの周りには本の集落が形成され村となりやがて立派な街に発展していたが、それにも構わず読み続けた。ひたすらに活字を追い続け、ようやく探していた文字の羅列を見つけたのは、心臓外科医が冗談交じりに書いたエッセイ本であった。震える手で何度もページをめくりなおし読み返して、僕は息を詰めた。探し求めた名を、恋というのだと知ったときには膝の力がかくんと抜けた。


(よかった僕、死なないんだ・・・)




そうして安堵がひとたびくると、つぎに浮かぶのはああ、告げなければという衝動である。恋というのは悩むくらいなら告げてしまうのが一番いい、心臓外科医が言っていた。本業の者がいうのだからきっとそうにちがいない。僕は立ち上がりベッドを飛び下りた。着地の拍子に街はあっけなく瓦解する。気にせず裸足で床を蹴った。


二階から一階へつづく大きな階段、駆け下りる途中で姿が目に入る。両腕に荷を抱え、リヒターは広間を横切っていた。僕は足を止め手すりから身を乗り出しそうして叫んだ。


「っリヒター!」


ふりかえる、思った瞬間言葉は口を飛び出した。


「リヒター、大好き!!」


はあはあと、走ってきた身体はいそがしく息をする。けれど言ってしまうとひどく安心して、なにかがかちりと当てはまったようなそんな気がして思わず、ふにゃりと笑ってしまった。ぼとぼとと、抱えていたいくつかの紙袋を眼下のリヒターが落とす。カチャンと固い音がしたのは、もしかして実験用のシリンダーでも入っていたのかもしれない。拾うのを手伝いに行こうとして僕ははたと気がついた。広間には今日、実家からもどってきたばかりのたくさんの人の、目、目、目。見開いて、僕をみつめている。あ、と声が漏れた。リヒターがわなわなと震えているのは遠目にも見てとれる。


アステル! 聞いただけで殴られそうな怒声が響いたのはすぐあとのことである。


(だってしょうがないよ告げなければ僕の心臓があぶなかったんだから!)




7月2日 差し換え