そっと抜き取ると埃が鼻についたのか、くしゅり、くしゃみをした。

鼻頭を押さえながらゆっくりと背の高い脚立を下り、床に足をつくとほらと、リヒターは手にした本を差し出した。薄汚れた濃紺の表紙、植物図鑑の古い古いもの。ありがとうと受け取ってはっとする。

「ああ、ちがう、そうじゃないんだよリヒター、」
「? この本じゃなかったのか?」
「ちがう、そういう意味じゃない僕は、僕はさ…!」

俗に言うデートというやつに来ているつもりなんだよ、そう言おうとしてなぜか、言葉につまる。そのひとことはどうしてか、小難しい呪文の詠唱よりもずっとずうっと、むずかしい。(これは、つぎの研究用のテーマ一覧に加えておかないと、いけないね…)

長机の端に並んで座って、思い思いの本を読む。時折り靴音とひそやかな話し声があるばかりで、広々とした学術資料館には静穏が満ちていた。

リヒターの目が活字を追う速度は、おそらく僕と同じくらいかすこし早い。いつものように気難しい表情でぺらぺらり、ページをめくってゆく。反対に僕は、となりのリヒターを気にして注意散漫、読んでいたものだからまだ解説の第一章すら脱せずにいる。きりのいいところまでいったのかふと、手元から顔を上げたリヒターがふりかえる。

「どうした、腹でも空いたか?」
「…ちがうよ、リヒターの無神経」
「おまえにだけは言われたくないな」

この僕が、リヒターなんかにやりこめられるなんて! むっとしたけどたぶん、正論で、返す言葉もなくて、僕は黙って図鑑にもどるふりをした。じぶんがもうちょっと、人と喋るのが得意だったらよかったのにと、はじめて思った。

目線だけ遣ると、開いていたページには古代花が咲いていた。整然と並んだ数十の青い花びら、今はもうなきサグの花。先の大戦のために枯渇したと手書きの記載が加えられている。姿かたちを模写したものを見るのはこれが初めてではなかった。以前たしか、再現機で目にしたことがある。再現機というのは古代の動植物を立体映像として映し出す研究所の機械のことだ。研修時代に貴重な物だから使用の申請は云々と長話を聞かされた覚えがある。(研究室をもらってからは比較的自由に使わせてもらっている、というかほとんど勝手に使っているけれど)

記憶力はよい方で、使い方を示しながら教官がそのとき話していたこともよく記憶していた。古代のテセアラにおいて青は、春の象徴だったのだという。現代の感覚でいえばおそらく桃色や黄色がそれにかわるのだが、当時は青であった。その頃は今より気温の低かったテセアラで、春がくると氷の解けて水の恵みがよみがえったことに起因するそうだ。主にフラノール地方に端を発したというからなんとなく納得がいく。

今年の冬は、ことさらに冷えた。例年にない積雪や、凍りついたしろい噴水、そのまわりで雪投げをしたこと、まぶしい記憶がよみがえってくる。あたたかさを取り戻してきたこのごろの日々には、ひどく懐かしいようにおもえた。もうじきゆるやかに青の流れ、花々が目覚めて、春が、やってくる。おもえばリヒターと知り合ってもう、季節がくるりと一周してしまった。一年の、なんと短いことだろう。年を重ねるほど一年が短くなっていくと先人のいうのは聞いたことがあったけれど、今年ほど顕著にそれを感じたことはない。リヒターとすごした一年は光の過ぎるよう、本当に、またたきのあいだのことにようにおもえて、なんだか、不思議な気分になる。次の一年もまた目まぐるしく過ぎて、つぎの春にはまた、ここで並んで本でも読んでいるのだろうか。そんな風に、かたちのないこれからのことを考えるのは意味のない妄想だと思うけれど、なぜかふっと、胸があたたかくなった。(つぎの春も、ここで並んで、そうして夏が来たら、そうだな、星の観測に無理やり付き合わせて、秋はおいしい料理をつくれるように、練習して、それで、冬は、冬は――)

思い巡らせていると不意に、右肩にはらり、重みを感じた。リヒターがよりかかっていつのまにか、眠っている。その前には僕の頭ひとつぶんくらいの高さの本が積まれていた。僕はぼんやりと結構な時間、思想に耽っていたらしい。起こそうと手を伸ばしかけて、やはりやめた。連日の仕事に疲れているのだろう。(それに、ついこのあいだまで、熱心につきまとっていた前科も、あるし)途中で止めた手、眠りやすいようにと眼鏡だけ外してやった。ちらり、規則やらなんやらに厳しい顔なじみの司書の女性が見咎めなにか言いたげな顔をしたが、僕が申し訳なさにわらうと、ため息ひとつついて、「たくさんの人が利用する図書館ですからね」とだけ言ってむこうの棚の方に行ってしまった。窓辺、やわらかなひかりを背に受けながら、時間はおだやかに、おだやかに、過ぎた。


その後けっきょく僕もとなりに誘われるようにして眠ってしまい、件の司書に休憩室じゃないんですからねと小一時間怒られたのは、また別のはなし。

(でも口うるさく叱ってくれるのが彼女なりの愛情なのだと、いまの僕ならわかるのです)

ちょっと、リヒターに似ているよね。散々怒られた帰り道そう言うと、じっとりした目でにらまれた。ほら、そういう表情とかが、さ。…もういっぺん言ってみろ。(この調子じゃ、デートなんて、むりな話だよねえ)