「ぜっ、ぜっぜっぜっぜぜろっ・・ゼ、ロ!」

慌てすぎたせいで、脚にブレーキが利かない、俺は倒れるようにそいつの上に突っ込んだ。全身を打つ衝撃、止めようと伸ばした手に走る摩擦熱、それから痛み。荒い呼吸を繰り返すと、慣れた匂いが肺を満たした。潰された男の苦しそうな呻きに、ああああ!ごめんごめん!と急いで身を起こす。恨めしそうな目でゼロスは俺を見上げていた。

「ごっ、ごめ、ごめんな!すぐどくから!」

言ったはいいものの、これまた焦っていたせいで、ゼロスの手を思いっきり膝で踏んでしまう。ぃつっ!と、短い悲鳴に急いで身体を離す。ようやく解放されたゼロスは、青草から起き上がるとじとっとした目で俺を見つめた。木の陰にいたボロが尻尾を立てて俺を睨む。

「ごめん、ほんっと、ごめん!」
「・・・・・なんなのよ、いったい」
「あ!あいや、その、あの、な、・・・ちょっと、頼みがあるん、だけ、ど・・・・・」

上目遣いにおねがい光線、返されるのは冷たい視線。しばらくの攻防、ゼロスはふいと目をそらした。

「わかった、お礼になんでもするから!」
「何でも?」
「うん、なんでも!」
「・・・・メロンソーダとブラウンキャラメルパフェ、駅前のカフェ・ブライアンのやつ」
「っ・・うん!奢る奢る、いくらでも奢る!(つうかその喫茶店この辺で一番人気の高級店じゃんか!)」

ゼロスはようやくすこし機嫌を直して、あぐらに肘をついて俺を見た。

「で?用件、」
「あー、あのな?その、勉強を、教えてほしんだけど・・・。ゼロス、成績いいって聞いたから」
「・・・ああ、中間テスト?どの教科よ?」
「んっ、と、リーダーとライティングと現代文と古文と、数学と化学と、歴史と・・・あと、現代社会かな」
「あと、現代社会かな、じゃねえよ!それぶっちゃけ全部じゃねえのよ!」
「あー・・・・ばれた?」

ぽかんと頭を小突かれた。その手をひょいと掴む。

「あん?」
「でも、ソーダとパフェの代わりに助けてくれるって、約束、したよな?」
「ぐ・・・」
「次のテストで赤点ひとつでも取ったら毎日補習って、担任に言われちまったんだよ、な、たのむよ、ゼロス」

ゼロスは言葉に詰まる。根っこの部分は結局いいやつの、ゼロス。拳を下ろして、黙ってしまった。(ごめんな、優しいのにつけこんで、利用するようなことして。でも俺おまえのそういうところすげー好きなんだ、だからついつい甘えちゃうんだよ、ごめんな)

それから、ふと顔を上げて、

「なんでまた全教科?授業中なにしてんの、」
「授業中?・・・えーと・・ゼロスを捜したり追いかけたりしてた」
「・・っ!お、っま、バカか!」

ひゅっと伸びた手が俺のほっぺたをつねった。いたいいたいいたいと言うけどギリギリ引っ張られる。(あ、ちょ、ほっぺたちぎれる!痛いっ、て、ば!)

「もっ!いったい、か、ら!」

叫ぶように言えば、ようやくゼロスは手を離した。それからがくりと肩を落として、

「あーもーしょうがねえやつだなあ!・・・・そんな風に言われたら手伝うしかねえじゃねえのよ・・・」

ため息とともに吐き出された言葉。口調とは裏腹にやさしい声で、俺はついにやけてしまう。でこピンされた。・・・痛いのに、なんだかうれしい。

「・・放課後は残れねえから、教わるんなら飯早めに食って、昼休み図書室に来い」
「おう!」
「あと、中間まで、あと2週間は、授業にきちんと出ること!」
「・・・・・・おう、」
「おいこら、なんだその小さい返事は」

ゼロスがにらむけれど、俺は浮かれていた。

だって明日から、昼休みは毎日ゼロスに会えるのだ!(明日も、明後日も、そのつぎも!俺ってばなんて幸せ者なんだろう)数日前から俺を見ても逃げないようになってくれたゼロスだったけど、毎日会える確証なんてなかったから、俺は、ほんとに、ほんとにうれしかったのだ。

にやける俺に、名付け親によく似た三毛猫は呆れたように鼻を鳴らす。







浮かれていられたのは、最初のうちだけだった。

鬼のような宿題、目がうつろになるほどの問題量、厳しい指導。ゼロス先生は、普段のようすからは想像しえないほどの、スパルタ教師だった。

図書室を訪れて、初めてゼロスが眼鏡をかけているのをみたときは、あまりのかっこよさに真っ赤になったけれど、いま同じものを見ても疲労が襲ってくるだけだった。

ハァと息を吐くと、ゼロスはぽんぽんと長机を軽く叩いた。

「ため息ついてる暇があったらほら、次」
「・・・うん」
「数学はこの公式が使えねえと話になんねえんだから、さっさと手を動かす!」
「・・・・はい」

ペンだこで痛む右手をひきずって、難解な数式を問題集に書き込んでいく。この数日、数学における目だった進歩は『ニジカンスウ』が虹関数ではなく二次関数だとわかったくらいだ。当然、途中で詰まった。顔を上げる。眼鏡の奥の瞳と目が合った。

「わかんねえ?」
「う・・ごめん、」
「どこ」

指で示すと、ゼロスのシャーペンがさらりと動く。数字を書き込みながら、ふと、ゼロスは言った。

「今日でもう、6日か?」
「あ・・・あー、そうだな」
「・・・・おまえ、よくめげないよな」
「え?」
「これだけ毎日宿題出したりしたら、途中で音を上げるかと思ってたんだぜ」

ゼロスはもはやプリントから完全に視線を上げて、俺をみていた。いつになく感心した表情に、すこし照れる。

「だって、ゼロスが教えてくれるからさ」
「俺?・・・べつに、他のやつに頼んだっていいでしょうに、どうして俺なのよ?それくらい頼めるダチなんて、おまえならいくらでもいるだろ」
「なにいってんだ、おまえがいーんだよ、俺は」
「どうして」
「だって俺、ゼロスと友だちになりたいから」

じっと見つめて言うと、ゼロスはカァ、とほっぺたを染めた。あれ、とおもってのぞきこむと、両手をぶんぶん振って、こっち見んなとゼロスは喚いた。図書委員の静かにしてくださいという、冷静な迫力ある声が響く。ゼロスは机につっぷした。

「・・・ゼロス?」
「・・・・・・バカ(んなこと恥ずかしげもなくゆってんじゃねえよ、この天然め!・・・・つか、とっくに友人気分でいた俺がバカみたいじゃねえのよ・・・!)」
「なんだよ?聞こえねえよ、」
「っるせ、ほらヒント書いてやったからさっさと続き書きやがれ!」
「もー、なんなんだよ・・」

公式をごちゃごちゃいじっていると、ぽつりとゼロスは言った。

「来週の、月曜日な、」
「んー?」
「テスト前日だし、放課後付き合ってやる」
「っ・・え?」

うつむいたままでその表情はわからなかったけれど、声はやや上ずっていた。俺は願ってもない申し出におどろいたり喜んだりで、しばらくありがとうと返すことすらできなかった。







試験前日の追い込みも手伝って、返ってきた答案に赤はなかった。担任にものすごく驚かれて、俺はちょっと鼻が高かった。ゼロスに早く報告に行きたくて、4限のホームルームが無限のようで、担任の話が終わるとすぐに俺は席を立った。

物音に振り向くクラスメイトも気にせずに、勢いよく後ろのドアを開けて飛び出す。と、すぐそこに探していた顔を見つけて面食らった。

「ゼロス!」

よ、と片手を上げて、ゼロスは笑った。

「テスト、返されただろ?・・・気になったんで、来ちまった」
「あ、あうん、それで、あの、」
「バァカ、言わなくてもわかるっつの。うれしそーな顔しちゃって、」

ひょいと伸びた手が、はいはいいいコいいコと頭を撫でる。俺は恥ずかしくて背の高いゼロスから必死に逃げたけど、リーチの差は簡単にそれを許してくれない。

「ちょっ、なっ、なんだよ!ガキみたいに扱うなよなっ!」
「いいじゃねえの、ちっとくらい」
「よーくーなーいー!」

はははとゼロスは笑った。珍しいくらい大口開けて。俺は頭に置かれたままの手にむっとしたけど、そういえばこんな風にゼロスの方から俺のとこに来てくれるのは初めてのことだったから、ちょっとは許してやることにした。

と、廊下を走る同級生に、いまが昼休みなのを思い出した。腹が素直に反応する。

「ゼロス、今日、一緒に昼、食おうぜ。ここんとこずっと、図書室だったじゃん」
「あー・・そういえば久々だな」
「俺購買でお茶買ってくから、先に行ってろよ。裏庭でいいよな?」
「おう」

返事にうなずいて、くるりと踵を返して東校舎に走り出す。すると、数メートルも行かないうちにゼロスに呼ばれた。

「ロイド!」

上履きになんとか力を込めて振り返ると、ゼロスがすこし戸惑った表情でこっちをみていた。首を傾げると目をそらして、素っ気なく言う。

「さっさと来いよな!・・・じゃ、先、行くから」

バタバタとせわしなくゼロスは行ってしまった。走り去る背中にふと、違和感を覚えた。なにか、なにかがおかしい。

背中がむずむずするような、身体の奥からなにかが湧き上がるような、妙な感覚。突っ立ったまま考えて、ようやく、あ、とその理由がわかる。

「『ロイド』」

ロイドって、ゆった。ロイドって・・・ロイドって呼んだ、初めて呼んでくれた―――ゼロスが、あのゼロスが!

じわじわ、じわり。やばい俺、名前を呼ばれたって、ただそれだけで、叫びだしそうなくらい、喜んでる。今すぐ跳びはねたいくらいに、感動してる。

「・・・っしゃ!」

両手でガッツポーズ、気持ちいい。

自然、足が軽くなった。笑顔を噛み締めながら、走り出す。

音速の上履き、跳ねる身体、かるく、かるく!廊下は走っちゃいけませんなんてポスターは茶番!高校生は高校生らしく爽やかに!ホップステップジャンプ!





走る、ただ、ただ、あふれ出る喜びの奔流に身を任せて











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